防須正秀、沖縄に散ったラス・ビハリ・ボースの長男
インド独立運動の英雄の二人のボース、インド国民軍スバス・チャンドラ
・、ボース・もうひとりは「中村屋のボース」ことラス・ビハリ・ボースである。
日本に永住することになったビハリ・ボースであるが、一男一女に恵まれ
た。長男の正秀、長女の哲子である。
さて。。中村屋の相馬黒光なる人物、日本に亡命していたラス・ビハリ・
ボースト中村屋の相馬黒光の長女・俊子が結婚したのは大正7年、1918
年である。仲介役は頭山満、イギリスの追手を逃れるため転居を繰り返
すうちに、俊子は出産、長男の正秀であった。1920年、大正9年である。
相馬黒光は女性である。亭主は愛蔵。愛蔵と二人で中村屋を創業した
女性実業家である。
黒光の遺稿集『滴水録』昭和31年2月、相馬安雄発行によると
「幸い知人の産婆で秘密を厳守してくれる人があり、安産であった。
狭い家でのお産の間、ボースはどこにいさせたらいいのか、ただ間の
襖を締め切ってお産が済んで初めて襖を開き、男子の出生を告げた」
ボースを知って以来、インド人の皮膚には、金色の仏神像のような
「不思議な一種の光が沈潜している」と見た黒光は初孫にもこの光が
籠もっているのではと思った。
「ところがそれは予期に反した。生まれたその子はやがてそれが
、どんな色白に変わるかと思わせる本当の赤子で、端正な顔のどこ
かに父の骨格を秘めた美しい子であった」
第一大戦も終わり、ボースはイギリスからの「独探」として追われる
ことはなくなったが、インド本国への帰国は叶わず、日本に大正12年7
月に帰化した。相馬家に入籍はせず、新たに防須家を起こした。
中村屋は関東大震災の被災を免れ、防須家も新居を構えたが、直
後、黒光の娘もある妻の俊子が発病、1925年、大正14年3月永眠、
享年28歳であった。
母を失った正秀と哲子は愛蔵と黒光という祖父母に育てられた。
『摩文仁の石』、防須正秀戦死覚えがき、と副題。
沖縄で行動をともにした日本兵の文章が掲載されている。なお貴重
な写真も。
早稲田大学、自動車部で活躍
防須正秀少尉
入営の前日、松本城をバックにして、昭和17年9月
終戦から6年たった昭和26年9月、心当たりを尋ねる遺族の住所を知
った田中義徳氏は復員先の北海道の十勝から当時の状況を知らせる
手紙を黒光に送ってきた。
「戦闘が終わりに近づいて少尉殿と、タバコのケースと日の丸の寄書
きを互いに交換し合ったわけです。・・・・米軍に囚われた時、私は持ち
ものすべて取り上げられてしまいました。・・・・ですから遺品といたしま
しては何もないのですが、最後の戦闘の場所、摩文仁の海岸というと
ころ、当時は屍と血の海でした、・・・・から捕虜で作業中遺品に代わる
ようなものを御遺族に届けたいと思い、岸に現れていた小石、ニ、三
個を拾ってどうにか隠して持って帰りました」
表紙の石、白い斜めの筋が入った手のひらくらいの小石が二つ、
遺骨代わりに届けられたのである。
・、ボース・もうひとりは「中村屋のボース」ことラス・ビハリ・ボースである。
日本に永住することになったビハリ・ボースであるが、一男一女に恵まれ
た。長男の正秀、長女の哲子である。
さて。。中村屋の相馬黒光なる人物、日本に亡命していたラス・ビハリ・
ボースト中村屋の相馬黒光の長女・俊子が結婚したのは大正7年、1918
年である。仲介役は頭山満、イギリスの追手を逃れるため転居を繰り返
すうちに、俊子は出産、長男の正秀であった。1920年、大正9年である。
相馬黒光は女性である。亭主は愛蔵。愛蔵と二人で中村屋を創業した
女性実業家である。
黒光の遺稿集『滴水録』昭和31年2月、相馬安雄発行によると
「幸い知人の産婆で秘密を厳守してくれる人があり、安産であった。
狭い家でのお産の間、ボースはどこにいさせたらいいのか、ただ間の
襖を締め切ってお産が済んで初めて襖を開き、男子の出生を告げた」
ボースを知って以来、インド人の皮膚には、金色の仏神像のような
「不思議な一種の光が沈潜している」と見た黒光は初孫にもこの光が
籠もっているのではと思った。
「ところがそれは予期に反した。生まれたその子はやがてそれが
、どんな色白に変わるかと思わせる本当の赤子で、端正な顔のどこ
かに父の骨格を秘めた美しい子であった」
第一大戦も終わり、ボースはイギリスからの「独探」として追われる
ことはなくなったが、インド本国への帰国は叶わず、日本に大正12年7
月に帰化した。相馬家に入籍はせず、新たに防須家を起こした。
中村屋は関東大震災の被災を免れ、防須家も新居を構えたが、直
後、黒光の娘もある妻の俊子が発病、1925年、大正14年3月永眠、
享年28歳であった。
母を失った正秀と哲子は愛蔵と黒光という祖父母に育てられた。
『摩文仁の石』、防須正秀戦死覚えがき、と副題。
沖縄で行動をともにした日本兵の文章が掲載されている。なお貴重
な写真も。
早稲田大学、自動車部で活躍
防須正秀少尉
入営の前日、松本城をバックにして、昭和17年9月
終戦から6年たった昭和26年9月、心当たりを尋ねる遺族の住所を知
った田中義徳氏は復員先の北海道の十勝から当時の状況を知らせる
手紙を黒光に送ってきた。
「戦闘が終わりに近づいて少尉殿と、タバコのケースと日の丸の寄書
きを互いに交換し合ったわけです。・・・・米軍に囚われた時、私は持ち
ものすべて取り上げられてしまいました。・・・・ですから遺品といたしま
しては何もないのですが、最後の戦闘の場所、摩文仁の海岸というと
ころ、当時は屍と血の海でした、・・・・から捕虜で作業中遺品に代わる
ようなものを御遺族に届けたいと思い、岸に現れていた小石、ニ、三
個を拾ってどうにか隠して持って帰りました」
表紙の石、白い斜めの筋が入った手のひらくらいの小石が二つ、
遺骨代わりに届けられたのである。
この記事へのコメント
ボース氏のご長男の情報、ありがとうございました。