文化学院における高浜虚子の俳句授業とは

 
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折口信夫、柳田国男、高浜虚子というとそれぞれ高名な国文学者、
民俗学者、俳人ということになるが、やや意外なのはその三人が共
著として児童書を出したことがあること、それはアルス社の「日本児童
文庫」之第64巻である。『歌・俳句・諺』がそれである。折口が歌、俳句
は虚子、柳田が日常の生活としての諺を優しく説いている。

 高浜虚子はこの他に『小学読本中の俳句講釈』1921年、培風館が
ある。児童文学的な営みとも言えないこともない。それゆえにかどうか、
か、

 文化学院は初期においては特にだが、著名な文化人を教師に招い
た。虚子の娘でやはり俳人として著名な星野立子も、俳句を始めて
いなかった娘時代、事務員で文化学院に勤務していた。

 虚子の担当は「俳句」で「作歌」は与謝野晶子。それにしても歴史的
に日本で学科として「「俳句」、「作歌」を立てた学校は文化学院だけで
あろう。小学校から入ってきたばかりの少女たちの教師が当代随一の
俳人、女流歌人が担当していたのだから、まず考えられない贅沢さで
ある。

 授業の様子は虚子が俳誌『玉藻』に連載した「文化学院生徒に俳句
を教える」という記録的な感想に詳しいが授業を受けた生徒の証言を
引用すると、

 石橋秀野、中学部の二回生にして、その後山本健吉夫人となった人、
俳人となったが句文集「桜濃く」1949年、創元社で第一回川端茅舎賞を
受賞した、迫り来る死さえたじろぐことなく凝視し、その気鋭のゆえに実
にユニークな位置を占める女流俳人、・・・・・・

 句文集に収めた「道」という回想の中で以下のように書いている。

 「学監の与謝野晶子女史が和歌を教えられるのに対し、虚子先生は
俳句である。創立当初から数年は続いたから、最初の頃の卒業生は
皆、虚子先生の教え子というわけである。入江たか子、伊達里子、とい
う女優たちも、その頃は東坊城子爵の令嬢の英子であり、・・・・・

 先生はいつも同じ質素な羽織袴を召して、お天気の日は草履、雨の
日は下駄履き、片手に傘といういでたちで、省線の御茶ノ水駅から歩
いて来られる。私達は遠方から先生が見えると、先生、先生と呼ぶ、す
ると先生もオーイ、と応えたりして校庭まで来る。先生の袖にまとわりつ
いてカバンを持ってあげたりして、時には先生のハンドバッグ、ポケット
からチョコレート、キャラメルが現れる。学校というより近代的な寺子屋
だった。晶子女史夫妻が仲間に入って鬼ごっこすることもあった。

 黒板の前に虚子先生は立たれる、何もおっしゃらずおもむろにチョー
クを取り上げ、前回の時間に出されたテーマの作品の中の佳句を書き
出されて、作者の生徒を指名するように顎をしゃくられる。それは自分
の俳句の背景を説明してみよ、ということである。黒板の前に出て嬉し
いやら恥ずかしいやらで興奮してしまう。やっと自句自解すると、先生
は一言一言に頷かれて更に詳しい説明をされる。

 次に故人の句を書き出される。古句の鑑賞が終わると再び当日の
題を黒板に書かれる。簡単な季題の説明をされる。それから句作に
とりかかる。

 
  なかなかの指導力である。その指導を受けた生徒の作品はどうなの
かである。石橋秀野、卒業記念アルバムに載せたもの

 一人なる窓より遠き花火かな

 ほのかなる良き香りや菊を焚く火なり

 紅椿開かぬままに大戸かな


 石橋秀野一人を生んだだけでもたいしたものだが、さらに宮本慶子、
第一回生、もいる。

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