「犬吠の太郎」(高村光太郎『道程』)の実像

  
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高村光太郎の詩集『道程』は、実は最初の詩集、処女詩集
であった、大正3年、1914年(余談だが西暦に変換方法は明治
は1867に元号の数字を加える、大正は1911に、昭和は1925に
、平成は1988に元号の数字を加える)に抒情社から出版された
。光太郎32歳の時である。その中に(犬吠の太郎」という誌が
収録されている、読めば実在のように思えるが、・・・・。

 「犬吠の太郎」は大正元年1912年の頃の作品とされている。
「犬吠の太郎」はやはり実在の人物で年齢は光太郎と同じくら
い、だったようだ。

  でその誌は

 太郎、 太郎

 犬吠の太郎、馬鹿の太郎


 けふも海が鳴っている

 娘曲馬ぼびらを担いで

 ブリキの缶を棒ちぎれで

 ステテレカンカンとお前がたたけば

 様子のいいお前がたたけば

 海の波がごうと鳴って歯をむき出すよ


 、・・・・・だが「馬鹿の太郎」とはどういう意味なんだろうか?

 場所は犬吠岬、その南の三方を海に囲まれた小さな岬、百戸
ほどの集落、「長崎」集落、九州の長崎ではない。

 「犬吠の太郎」のモデルは阿部清助、その一家はその集落に
生活していた。

 清助は生まれつきなのかどうか、知恵遅れであった。そのた
め土地の人たちから日頃からバカにされ続けていた。「長崎太
郎」の異名で呼ばれていたという。それは近隣まで馬鹿の代名
詞で通用していた。

 実際にあったはなしで、、ある冬の寒い寄る、太郎が囲炉裏
で焚火をし、暖を取っていた。その火勢があまりにつよく、隣
の家では、注意を促したほどであった。そうしたらそばに積ん
であった薪に火が燃え移り、家まで燃やしたそうだ。もうなんと
いうか、加減がわからなかった、ためという。

 その集落の子どもたちは太郎がブリキの缶を棒切れで、ガン
ガン叩きながら歩いているのを度々見たそうである。その叩き
方も全然リズミカルでなかった。日中戦争が始まって二年目くら
いの頃、太郎は肥桶を担いで歩いていて、列車に接触し、あっ
けなく死んだ。

 高村光太郎は「長崎太郎」を「犬吠太郎」に変えて詩を書いた
。「長崎太郎」ではどう見ても九州の長崎の太郎と思われてし
まうし、犬吠岬は独自の存在感があるからだろうか。

 当時光太郎は犬吠岬の暁鷄館に逗留していた。そこであの
長沼智恵子と出会った。運命の出会い。太郎はその旅館で水
汲みや風呂焚きの手伝いをやっていた。

 太郎、太郎

 犬吠の太郎、馬鹿の太郎


 、・・・・・昔は町に一人はこんな知恵遅れの名物人間がいた
ものだなぁ。最近はあんまり見ない。

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