伊藤マリ子、伊藤整の次女のやや不可思議な死


 
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また、・・・・・書こうか、伊藤マリ子さんのことを、もう何度も書いた
のだが。・・・・・生前、凄まじい存在感があっても死後、急速に忘れ
される、忘れ去られるに近い小説家は多い、というか、大抵そうだ
。逆に生前はわりと無名でも死後、かなり有名になる小説家もいる
。あの伊藤整は前者の典型であり、後者は例えば木山捷平だろう
か、梶井基次郎だってそうだが。日本文藝家協会会長とか、それ
以前はチャタレイ裁判で勇名を馳せた伊藤整(いとうひとし)この人
の「若い詩人肖像」は中学生時代からの私の愛読書だった、鳴海
仙吉」、仙吉といっても大学教授という設定だが、伊藤整自身、東
京商大中退だが、東京工業大学で英語を教え、生涯教授だった。
・・・・・で伊藤マリ子さん、これほど、しつこく書くのも私くらいなもの
だろうなぁ、私より一歳年上、一学年上である・。1952年生まれ。

 初めてその名を知ったのは1966年、昭和41年、毎日新聞の読書
感想文コンクール、・・・・・今でもあるの?で最優秀になったこと、
課題図書は「肥後の石工」、あんまり面白うそうな話でもないけ
ど、伊藤マリ子さんのその感想文はなにか、大まじで書いている
うに感じた。まさか親の七光で受賞したわけでもないだろうが。
直後にテレビ、民法の朝のTV番組に出たマリ子さんは「お父さん
の後を継いで小説家になりたいですか?」と質問され、にこやかに
笑っていたけど、・・・・・。

 で、その後どうなった、・・・・これはやや悲劇である。

 マリ子さんはずッと成蹊学園だったが、その生ぬるい雰囲気に
飽き足らず旧制で云えば府立十中、戦後の都立西高校、山の手
にある高校に入学した。当時はなにせ、東大合格者が多いので
勇名な高校で、まあ、受験一辺倒である。私はこれが大いに彼女
の才能をスポイルしたのでは、と思わずにはいられない。東大受
験に失敗、東京女子大文学部哲学科に、でも早慶は受けなかっ
たのかな?落胆は大きかったようだ、

 で西高校に話を戻すと、そこは成蹊学園のような恵まれた環境
はまるでない。

 「広いグラウンドを超えてまで広がる広い空はなく、・・・・木々も
小さく黒く埃を浴びて」、、「木造の教室の狭い窓からは、貧しい
なじみのない光が入る」・・・・

 幼い頃から本を読むことを私身上とし、まるで本を食べて育った
ような子供、小学生時代から創作に熱中し、250枚もの小説を実際
に書いていたという。読書感想文コンクールでも総理大臣賞、みな
彼女がいずれは必ず文筆で身を立てる、と信じていたのも当然で
あったが。だが一旦、文章でなく絵画で表現しようという道を選んだ

 それは肉親の文章には一種、近親相姦的な生臭さがあり、その
配慮からか日本の近代文学はあまり読まず、翻訳小説ばかり読ん
でいたという。彼女がコンクールで受賞したちょき、父親の名を引
きあいに出したことへの後ろめたさもあった。

 彼女が17歳の時、父親の伊藤整が亡くなった、一家は現実、食
うに困る危機にひんしたという。

 東京女子大に籍を於いて再度、東大受験に挑戦、また不合格
であった。そこから気を取り直して女子大に通い始めた。だがこ
の頃から病気がちになり、残されたっ日は長くなかった。

 1977年、東京女子大を卒業、翌年伊藤マリ子さんは亡くなった。

 もしあのまま成蹊学園にいたら全く違った人生になったと思える
が。

 小樽文学館に私が昔、「伊藤整の子供の中でマリ子さんが一番
才能があったんじゃないでしょうか」、文学館の方が「伊藤礼さんも
そうおっしゃってました」

 中学生時代から高校生時代、「婦人公論」に何度か文章が掲載
されている。

 「津和野の町は自転車に乗って」は「婦人公論」昭和46年6月号
に掲載、立原正秋がこの文章に目を留め、激励の手紙をマリ子さ
に書き送ったという。・・・・・だが才能は開花しなかったのである。

 「サンデー毎日」昭和27年、1952年12月21日号、「妻を語る」とい
う連載で伊藤整に語る妻の伊藤貞子さんと伊藤マリ子さん、武蔵野で

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この記事へのコメント

2021年02月26日 04:48
東大合格者が多いので勇名な高校

有名


朝鮮…、挑戦。
ひな
2023年02月02日 01:53
お書きくださってありがとうございます。
数年前から、何度かこちらへお伺いしています。

37年前、大学へ進学する直前の春休み、マリ子さんの「帰らない日へ」の文庫本に書店で出会いました。
この何年かは手に取ることはなくとも、書棚の奥に、そして心の奥にずっとある本です。

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