聖人弁護士、家本為一先生の歩み、元岡山県弁護士会会長


 IMG_1596.JPGというわけだが、家本為一先生についての書籍は現実、
全く一冊もない。強いて云えば昭和13年に刊行されたと
いうのか,『髭達磨の山乃歌』(家本先生歌集)という
小さな本があるだけ、古書を検索しても京都の古書店に
あるのみ。これとて「家本先生」とあるだけ。何か死後
の知名度が著しく低い憾みがある。一貫して貧しい人た
ちが依頼者であった、うちも家本先生に依頼していたこ
とがらい、先生が綿密な小さな字でびっしり書き込んだ
はがきを見たことがある。番組の中で依頼者と電話の
場面があるが、うちの親は「うちに電話をしている時
かと思った」という具合で、でも放送の年、昭和39年
に文藝春秋のグラビアで家本為一先生の写真がでかでか
と載ったのは事実である、NHKアーカイブ再放送でも「
或る人生」230回の中でも選ばれたのは家本為一先生
の番組だけである。

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 だがNHKのかっての名番組「或る人生」全部で230回も
放送された。1964年11月1日から1971年4月3日までという
長寿番組だった。歴史的な名番組だと思うが、この第7回、
1964年12月13日に放送された『杖と六法全書』家本為一
弁護士、・・・・名作揃いの『或る人生』から特に名作を
セレクトしてわずかに再放送されたが、今から10年近以上
前、2004年だったが、司会の加賀美幸子アナウンサー

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 「家本弁護士は国選弁護人を専門にやられた方です」

 放送された番組が番組の構成上、国選弁護を担当の家本
先生を主な内容としたことの誤解だろうか、家本先生は民
事が専門だった。岡山県弁護士会会長もされていたことも
あり、国選弁護人を引き受けることもあったが、それを専
門とは大いなる誤りである。ただ貧しい人が依頼者のほと
んどでお金を受け取らなかった。世話になった人たちがお
金を持ち寄って家本先生の支援を行っていた。

 家本為一先生は明治19年、1886年岡山県の現在の美星
町黒忠で生まれた。岡山市内の旧制中学を卒業後、早稲田
大学専門部からすぐに法学部に、法学部在学中に弁護士試
験合格と非常に頭のいいところをみせた。東京での学生
生活では食費を切り詰めるため、パンに味噌をつけての
食事が多かった。

 卒業後は岡山に帰り、弁護士を開業したが当時、頻発
していた小作争議、地主と小作人との間の紛争では100%
小作人について弁護士活動を行った。

 戦後初の岡山県民選知事選挙に出馬された家本先生。その
最初の文句は

 「大根のひげは白い、私のひげも白い、ここに人生のい
いしれぬ苦しみがある」

 順位は5位だった(落選)

 「或る人生」を見ると陋屋での質素極まる生活、野菜な
どを仕入れての自炊、ド近眼で分厚いドイツ語の書物など
を顔を近づけて読む場面など、運動性に欠ける(もちろん
基本的にに徒歩だったが)イメージを与えるが、とにかく
趣味は登山で戦前から「髭のおじさん」さらに「おじい
さん」で有名であった、歌集もそれ故である。

 大根を買った家本先生

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 自炊

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 小屋のような家は岡山市の寺院内に支援者が建ててくれ
たもの、依頼者にお金は基本的に要求しなかった。

 戦前、岡山に帰ってのこと、旭川河畔で全裸で水浴びをし
ていたら警官から「風俗紊乱だ」と警告されたが、気にもと
めなかった。

 高山への登山は若い時代から続いたが、岡山市内では近く
の小高い山に毎朝登るのが日課であった。そこで馴染みの人
たちと朝のお茶を飲んで交流していた。

 「今日は薬、明日は医者などという不健康な生活に堕する
事なく、早朝、飛び起きて山に登るべし」

 随分とストレスが多いお仕事ゆえでそのストレスの発散を
登山や朝の山登りで行っておられた。

 生涯独身だったが支援者や知人たちが何とかして家本先生
を結婚させようと、画策もし、ある芸者をと考えて工作した
が先生は「自分の勉強で忙しく結婚する暇などない」で結局、
独身を通された。

 「或る人生」は先生の登山、早朝登山、お茶の一杯、とい
う生活上の重要な点を描いていないが、ある殺人事件につ
いて国選弁護人となったケースを追っておる。

 倉敷警察署で凶器の包丁を手にする家本先生

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 加害者の親を訪問、徒歩で、もちろん被害者遺族も訪問

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 小学生相手に講演される家本先生

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 岡山市内を歩く家本先生

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 岡山地裁へ日曜意外は通った

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 刑事事件、窃盗犯の被告の国選弁護人、公判で検察官の
求刑に耳をそばだてる家本先生

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 公判で被告に諭す家本先生

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 「あんたは実は尊い部分がある、」

 家本先生は昭和47年だったか、正月だった気がするが。
突然ねこまれて10日ほど後、長患いされず亡くなられた。
墓は美星町にある。

 追記、
    家本為一先生の伝記

 
聖人弁護士・家本為一先生の伝記

「大根のヒゲは白い、私のヒゲも白い、大根のヒゲは始めか
ら白いが、私のヒゲは初めは黒かった。そこに人生の悲哀が
ある。われわれの発展もある。そこから初代民選知事家本為
一の構想も生まれた」

 これは昭和22年4月に行われた民選初代の岡山県知事選挙に
家本為一先生が立候補した時の、ラジオ放送の第一声であった
。この文章の前半は昭和11年の年賀状にも刷られていた。ただ
しその年賀状では「私の髭も白くなりかけた・・・」となって
いたが、これは先生の好きな文句であったようだ、選挙の結果
といえば、七人中の第四位で65000票あまりを獲得した。

 あの当時、もしテレビがあって政見放送されていたら、白髭
ダルマのような、それでいて人懐っこい目の笑顔というわけで
得票数はもっと多くなっていただろう。それほど家本先生の顔
や話しぶりには人を惹きつけるものがあった。温雅の魅力だっ
た。

 大正、昭和を通じて岡山の奇人、と云うと失礼だがそのトッ
プに来るのはまずは家本先生であったろう。「貧乏人の味方」、
「弁護士席の聖者」、「学究、哲学者」などと表現されたりし
たが、登山家として知られており、生涯独身のひとり暮らし、
首から上は温雅なる老紳士だが、首から下は汚らしい乞食同然
の姿であった。

 家本為一先生は、明治19年、1986年、川上郡日黒村黒忠(今
の〈井原市〉美星町)の農家に生まれた。尋常四年を出ると
成羽の高等小学校三年の編入試験に合格、これが得意の編入試
験パスの最初であり、その後、早稲田大学専門部法律科二年後
期、同大法学部二年とそれぞれ編入試験を一回でパスしている。
普通なら6年かかるところは2年半である。その後の弁護士試
験も21歳で合格というから頭がいい。

 東京に遊学中は下宿で自炊生活をやっていた。勉学の本を購
入のため生活費を極度に切り詰め、通常はパンに味噌をつけて
食べた。風呂代も節約し、ただで済む水浴びだった。このパン
と水浴は長く続いた。

 弁護士として岡山に帰ったのは明治の末、23歳だった。その
頃から黒い髭を蓄えて押し出しは良かった。最初は松田武一郎
弁護士事務所のイソ弁だったが、二年ほどで松田弁護士が亡く
なり、後を継ぐ形で独立した。

 当時はフロックコートとシルクハットを作った。弁護士の体
面を保つため着ることもあったが、家に変えるとそのまま横に
なり、寝るというのが変わっていた。平生は黒の詰襟服だった。

 大正中期の普選運動には情熱を燃やした。「貧しい者の味方
になる弁護士」はこの頃から明確になる。大正9年10月が最高潮
だったが、当時「主義者」といわれた佐々木銀一らの同志と岡山
県普通選挙期成同盟会を作り、各地で政談演説会を開き、「貧乏
人にも選挙権を」と熱弁を振るって聴衆を沸かせた。

 そのころ、日蓮宗の寒行からヒントを得て、ウチワ太鼓を打
ち鳴らしながらのデモをやった。家本先生はその先頭に立ち、

 「普通選挙!早うしょ!」ドンドン

 と音頭を取りながら、同志たちと寒夜の街を練り歩いた。初
日は数人だったが、二日目は30人ほど、3日目は150人にも増え
た。4日目には400人を超え、5日目は天瀬の本部前の狭い通り
は身動きできないほどになって、ついに警察から解散命令が出
た。

 大正10年5月1日、岡山で初めてのメーデー祝賀会を開いた。
警察の目を避けて数人の同志が西中島の食堂に集まり、革命歌
を歌いながら旭川の河原を歩いて終わったというささやかなも
ので終わった。

 その頃から農民運動、労働運動、水平運動が起こり、岡山県
内の運動は全国的にもトップクラスだった。小作争議、労働争
議が頻発し、大正デモクラシーは最高潮に達した。家本先生は
その顧問弁護士として活躍した。

 家本先生が生涯独身を通した理由は、本人に依ると

 「嫁をもらってもいいが、好きな読書の妨げになるし、つい
煩わしくなって」

 嫁より本のほうが魅力があったようで、書籍類が生涯の伴侶
となった。買い集めた本はドイツ語、哲学、社会学、心理学な
どおびただしい。戦前、内山下の石山門の傍らの家にいた頃、
壁に取り付けた書棚の重みで隣家の玄関が開かなくなるという
ことも起こった。

 家本先生の嫁さんを世話すると申し出た人は多かったが、ど
うにも本人が受け付けない。ある時、友人たちが謀って一芝居
をうった。当時、岡山の検番で一番の名妓とうたわれた芸妓さ
んとの婚約が成立というデマを流した、驚いた家本先生は早速、
その芸妓と連名で「事実無根」との新聞広告を出した。

 よき人と 隣に座りて新聞を

  読めども読めぬ汽車の中

 という家本先生の偶作もある。女嫌いではなく単に煩わしい
、が本音であったようだ。

 昭和3年に陪審法が制定され、刑事裁判に一般市民の参加の
道が開かれたが、家本先生はその仕組と理念を理解させよう
と、トルストイの『復活』に登場のカチューシャやメフリュ
ードフを配した陪審劇を書き上げ、自ら演出し、市内の劇場で
上演した。これは大変な好評で、連日満員札止めの盛況だった
というから演出能力もたいしたものだった。

 家本先生が、ニコニコしながら話す雰囲気はユーモアに
満ちていた。

 「その時の法廷は、原告、被告がやりあって陰険なもので
したが、私が弁論に立って話そうとした途端に、プーっと出
てしまって、それで私の困った顔で空気が和らいで、後は双
方が譲り合いの話し合いができました」

 弁護士としての専門は民事であったが家本先生は引き受け
手のいない報酬の低い国選弁護人もまた自腹でよく引き受け
た。

 「偶然、弁護料も払えない貧乏人の弁護をする機会が多かっ
ただけじゃ。ワシは普通の弁護士じゃ」
 

 と云ってもその弁護ぶりも変わっていた。いきなり被告へ
の説教から始まり、同様な被告の更生した話を聞かせ、

 「今度はぼっこうこりたじゃろう、もうこれで悪いことは
せんじゃろうと、爺さんは思いますがね」

 と言い聞かせて裁判長に向かって

 「裁判長さん、よう考えてつかーせー、今のわしの五分の
話と刑務所で何ヶ月も働くのと、どっちが本人ええでしょう
かな。ワシはワシの話のほうがずっと被告のためになると思
うがなあ、まあ、できるだけ軽くしてつかーせー」

 家本先生はスポーツと水浴の愛好者だった。まだ若いこ
ろ、寒い真っ最中に、旭川の相生橋の辺りで、道路脇の水道
共用栓の前に立って素っ裸で冷水摩擦をしていた。通りかか
った巡査が、

 「おい、なにごとじゃ、風俗を乱す、引っ込め」

 「なに!不見識を云うな、近頃のものは惰弱で困る。ワシ
は男の健康法を宣伝しとるんじゃ、なにが風俗紊乱じゃ!」

 と怒鳴り返したという。しかし次の日からは旭川に飛び込
んで水浴するようになった。これは、当分話題の種になった。

 家本先生のスポーツは若い頃からすきーと登山である。日
本アルプスなら隅から隅まで歩き尽くして、「ヒゲのおじさん
」として登山仲間で知らぬものはいなかった。

 「人生無一物、山水無尽蔵、これを観て尽きず、これを踏
みて怒らざるものは山水である。古人も山水の美に応えて、
千巌競い秀で、万渓争い流るというておる

 きょうは病気じゃ、昨日は薬じゃ、半休半労の能率なき生
活をするよりは、早朝、枕を蹴って起き、橋下乞食の鶏の鳴
くころ、東山に登りて萩の塚(第二古墳のあたり)に至り、
一杯の茶を飲み、人の目を覚ますときに悠々と下山し、おの
おのその職業に出勤するは、別に恥ずべきことではない」

 というエッセイが地元新聞に載ったのは昭和14年、その頃
から岡山の操山山頂にある萩の塚という古墳へ、毎朝四時半
に起きて一時間ほどかけて山頂に登る。いつとはなしに同好の
仲間ができて、抹茶を立てて雑談をかわすして下りるという習
慣ができた。この萩の塚の暁天の集まりは、雨の日も欠かさず
行われ、三十数年、1万回以上に及んだ。

 家本先生の住まいは昭和20年の戦災で石山門の傍らの家を焼
け出され、それからは小橋町の国清寺境内の隅屋に住んだ。そ
れは仲間や世話になった人から贈られたものだが、家本先生は
童牛庵と号した。「人が住むより、本や道具が住んでいた」と
も評されるが、ともあれ狭い部屋を本や世帯道具が占拠してい
た。

 この独居の自炊生活、汚さは乞食小屋同然、また衣服も手足
も垢に汚れていたが、首から上は白いヒゲにおおわれて清く美
しかった。

 昭和38年(文藝春秋)の新年号、家本先生の生活ぶりがグラ
ビア写真8ページで掲載され、広く紹介された。

 「弁護人席の聖者、家本翁の処世訓、よく生きる、よく笑う」

 「家本さんは毎月ドイツから法律雑誌や本を取り寄せて読むの
が趣味だが、ちかごろとみに視力が衰えた」

 と書かれている。

 翌年、昭和39年12月13日は「ある人生」第7回として紹介された。

 家本先生は昭和47年1月に、老衰で10日ほど患っただけで逝去さ
れた。86歳であった。墓は生地の美星町にある


 萩の塚で

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この記事へのコメント

大森 浩介
2026年06月08日 20:04
昭和40年前後でしたか、小学生の私は父親に連れられて何回か操山の萩の塚の茶会に行きました。家本先生の記憶は東山の電停付近を歩く姿、操山の茶会での姿を覚えています。
一度操山の登山道の途中で先生が「ホットケーキ」を焼いて食べさしてくれたおぼろげな記憶や、ご自宅にも行ったことがあるように思います。
私の自宅には先生の書や墨絵がいくつかあり、號は「童牛」です。デスマスクもあります。絵心・筆も達者で、サラサラと素人離れした腕前です。
私の誕生祝いに書いていただいた掛け軸もあり、目をかけていただいたことは今になって感謝・誇りです。

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