日本の「少女文学」の特質を考える


 9784336036926.jpgところで日本の少女文学といえば誰が代表的な作家だのだろうか
?もちろ、即座に思い浮かべるのは吉屋信子となるだろうが、あま
り知名度が高くないというなら、北川千代、尾島菊子、横山美智子、
由利聖子等が挙げられるとは思うが、吉屋信子が圧倒的で他の少女
文学作家はその作品の入手も容易ではない。でも男で吉屋信子を読
むなんてお世辞にも多くはないだろう。

 ところが外国の少女文学となると俄然話が違ってくる。少女文学
の定義だが、・・・・そこが問題にしても、拡大解釈したらジョル
ジュ・サンドの「愛の妖精」も入らないこともないが、これはあま
リの傑作である。小学生時代、図書館にあったローラ・ワイルダー
の「長い冬」、岩波だったと思うが、なにか印象に残った。もちろ
んワイルダーの代表作は「大草原の小さな家」である。はたまたオ
ルコットの「若草物語」、モントゴメリーの「赤毛のアン」、また
ポータ「少女パレアナ」、ウェブスターの「あしながおじさん」

 端的に言えば海外の少女文学はただ「少女」ではなく、「少女」
と「大人」の絡み合いで成り立っていて舞台は学校もあるが家庭が
多い。読者は何も少女層に限定されない、だから「家庭小説」とい
えるし、ヒロインの成長がテーマとなっている。一作ごとに成長す
る、身体的にも精神的にも成長し、最終的には結婚する。だから
少女小説はすなわち成長小説の趣があり、教養小説という趣もある

 逆に日本の「少女小説」とは多少の成長は描かれようとそれは、
しょせん重点ではない。結婚するところまで語られない。少女の
せかいを何者にも侵されない聖域としておきたい、広い人間性が
語られない。あくまで「少女性」への固執に近く、社会との関わ
りは希薄である。

 言い換えれば「児童小説」が純真無垢、汚れた大人への子供の
純粋性の強調が基本だったのと非常に似ている。日本の「少女文学
」は少女をいつまでも少女に引き止めておく文学という本質があっ
た。

 でもそうでない少女文学もあったわけで、海外の少女文学と
同じような「成長小説」、小森多慶子、昭和前期なら松田瓊子
といえる。松田は野村胡堂の長女である。ふたりとも早く亡くな
り、小森は大正末年に30歳で、松田は昭和10年代に23歳でなくな
り、真の完成を見なかった。

 少女小説的でもないが戦後、早船ちよの「キューポラのある街
」に始まる連作、

 ではその後日本の少女文学は発展したかといえば少女コミック
、代表的には池田理代子の「ベルばら」などの劇画に太刀打ちで
きなくなったといえる。

 その意味で文学的な少女小説はもうあまり生み出されていない
といえるが、吉屋信子が「花物語」にさいして書いた文章がある


 「今私は少女雑誌にたくさんの少女小説を書いておりますが、
我身の少女時代のことを考えて、決して仇やおろそかに少女小
説を書いては罰が当たる、と我身を戒めておりまうs.少女時
代に読んだものが、いつまでも心に記憶され、影響されること
を考えますと、少年少女文学というものは人生で大きな役割を
果たしていると思います」

 日本の少女文学はこの考えに尽きるのかもしれない。

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