日本の「少女文学」の特質を考える
?もちろ、即座に思い浮かべるのは吉屋信子となるだろうが、あま
り知名度が高くないというなら、北川千代、尾島菊子、横山美智子、
由利聖子等が挙げられるとは思うが、吉屋信子が圧倒的で他の少女
文学作家はその作品の入手も容易ではない。でも男で吉屋信子を読
むなんてお世辞にも多くはないだろう。
ところが外国の少女文学となると俄然話が違ってくる。少女文学
の定義だが、・・・・そこが問題にしても、拡大解釈したらジョル
ジュ・サンドの「愛の妖精」も入らないこともないが、これはあま
リの傑作である。小学生時代、図書館にあったローラ・ワイルダー
の「長い冬」、岩波だったと思うが、なにか印象に残った。もちろ
んワイルダーの代表作は「大草原の小さな家」である。はたまたオ
ルコットの「若草物語」、モントゴメリーの「赤毛のアン」、また
ポータ「少女パレアナ」、ウェブスターの「あしながおじさん」
端的に言えば海外の少女文学はただ「少女」ではなく、「少女」
と「大人」の絡み合いで成り立っていて舞台は学校もあるが家庭が
多い。読者は何も少女層に限定されない、だから「家庭小説」とい
えるし、ヒロインの成長がテーマとなっている。一作ごとに成長す
る、身体的にも精神的にも成長し、最終的には結婚する。だから
少女小説はすなわち成長小説の趣があり、教養小説という趣もある
。
逆に日本の「少女小説」とは多少の成長は描かれようとそれは、
しょせん重点ではない。結婚するところまで語られない。少女の
せかいを何者にも侵されない聖域としておきたい、広い人間性が
語られない。あくまで「少女性」への固執に近く、社会との関わ
りは希薄である。
言い換えれば「児童小説」が純真無垢、汚れた大人への子供の
純粋性の強調が基本だったのと非常に似ている。日本の「少女文学
」は少女をいつまでも少女に引き止めておく文学という本質があっ
た。
でもそうでない少女文学もあったわけで、海外の少女文学と
同じような「成長小説」、小森多慶子、昭和前期なら松田瓊子
といえる。松田は野村胡堂の長女である。ふたりとも早く亡くな
り、小森は大正末年に30歳で、松田は昭和10年代に23歳でなくな
り、真の完成を見なかった。
少女小説的でもないが戦後、早船ちよの「キューポラのある街
」に始まる連作、
ではその後日本の少女文学は発展したかといえば少女コミック
、代表的には池田理代子の「ベルばら」などの劇画に太刀打ちで
きなくなったといえる。
その意味で文学的な少女小説はもうあまり生み出されていない
といえるが、吉屋信子が「花物語」にさいして書いた文章がある
。
「今私は少女雑誌にたくさんの少女小説を書いておりますが、
我身の少女時代のことを考えて、決して仇やおろそかに少女小
説を書いては罰が当たる、と我身を戒めておりまうs.少女時
代に読んだものが、いつまでも心に記憶され、影響されること
を考えますと、少年少女文学というものは人生で大きな役割を
果たしていると思います」
日本の少女文学はこの考えに尽きるのかもしれない。
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