【改訂版】香月弘美さん、宝塚舞台事故、21歳の白い旅立ち


155878407266981758177_139685865970264342227_IMG_6938jx.jpg確かに言語に絶する悲惨な事故は宝塚大劇場で現実に起きたのであ
それは昭和33年4月1日午後6時半頃,宝塚歌劇史上最大のタブーと
もされる舞台事故であり、。労働災害などでは時々、この種の事故
は起きているが、劇場の舞台装置での死亡事故としては世界でも唯
一である。昇降装置の駆動部分に衣装を巻き込まれ、衣装の裾に巻
いてあった金属製ベルトがセリのシャフトに巻き込まれたことで香
月さんの胴を締め上げて結果として切断となってしまった。だが、-
この日に限って事故が起きた原因はいったい何だったのだろうか?

 私自身、一度だけ母親から「宝塚の舞台で亡くなった人がいる」
とだけ聞いていた。それ以外、いかなるその事故についての情報
は本、雑誌などで知ることができなかった。もちろん全く載らなか
たわけではないが、滅多に掲載されることはなかったようだ。劇団
は全くの、仕方ないにせよ、タブー視で封印であった。宝塚100年
でも触れられることはなかった。

その香月弘美さんが非業の死を遂げて、・・・長い長い年月が過ぎ
去った。まだ4歳半未満だった私もいつしか還暦を迎えた。夢のよう
に遠い昔のように思える。まだ街角で自転車の紙芝居屋さんを見て
いたころ、事故の日は「やりくりアパート」の第一回の放送の日で
あったようだ。


心の中から宝塚での事故のことは消えてしまっていた。だが、その
亡くなられた方が香月弘美さん、というお名前だったと偶然知った
のがごく最近であった。がその取り上げられ方、ネットであったが
私は愕然とするしかなかった。ただただグロな事件、好奇の目で取
りあげているに過ぎない。要は怪奇の対象としかみていないのであ
る。劇団葬は丁重を極めたにせよ、それ以後は封印の一語。昭和33
年秋の「宝塚乙女」にはもう一切、掲載されていない。・・・・
夢を描いて青春のすべてをかけた宝塚で悲惨な事故死、死後もグロ
的な後好奇の目で見られがち、・・・・・私は胸がいたんだ。私で
申し訳ないが、彼女の真実をなんとか描きたい、残したいと思った
のである。

 「歌劇」昭和32年12月号グラビア「晩秋の嵐峡にて」

 左から二人目が香月弘美さん、ツーショット右側

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  その舞台は昭和33年4月1日午後6時半、舞台は恒例の「春の
踊り」に代わる新作の「花の中の子どもたち」であった。
代わる新作の「花の中の子供たち」だった。「百万人のこども博

 「童話の国」の美しい王子(淀かおる)が、仇敵の「トランプの国」
の内紛に乗じて
乗じて奪われた秘宝を取り戻すため出陣というシーンだった。トランプの国の
内紛とは、神に仕える巫女の一人が清純であるべき掟を破って、近衛兵の
青年士官と激しい恋に落ちたため宮廷に大混乱が起こった、というストー
リーだった。3月26日から4月29日までの花組公演。月組からも応援が何名
かいて日夏さん、その代役が香月さん。

事故後、継続公演された「花の国の子どもたち」その第12場「トランプ王国
宮殿」のまさにその場面、二人は人間の国から来た「昭男」と「和
子」で松島、香月の役ではない。

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  「トランプの国」は科学の力で何でもできる、ボタン一つで
人の命さえ奪える。

 キング「この国ではボタン一つで家も建つし着物でもなんでも
出来上がる、薔薇の種子でもボタン一つですぐ大きくなって花が
咲く」

 和子「すごい」

 クイン「鳥だってボタン一つで、無線殺人光線で落ちてしまう」

 ・・・・・

 クラブ3「このハート8とハート7は、国が決めた憲法にで決
めた結婚をしようとせず、かってな結婚をしようといたしており
ます」

 キング「なんだと!」

 ・・・・・
 ハート8「王様、私達は互いに愛しております」

 ハート7「王様、お願いでございます、私達愛し合っている二人
を結婚させてください」

 クイン「愛などという言葉を聞くのも汚らわしい、ボタンじゃ!」

 キング 「ボタンじゃ!」  音楽とともに二人は消えてゆく

 

 キングが「ボタンじゃ」と叫んだと同時に、奈落の下では公演
係長の祐野繁造がセリ出し装置を降下させるため、実際の駆動の
ための電気ボタンを押した。

 抱き合ったハートの7と8はセリに乗って舞台から消えた、

 消えたと思ったらその瞬間、「ギャー」というハート7、香月
さんの絶叫が聞こえた

 セリの両側には、-舞台から奈落までの間二本の太いシャフトが
が立ってていた。直径が10センチほどの鉄の棒でラセン状の刻みが
入っている。スイッチを押すとシャフトはすさまじい勢いで回転し、
そのギザギザとセリ本体の歯車が噛み合って急上昇、降下を行う。

 セリが奈落まで到達するのは13秒。悲鳴の直後にはセリはもう
奈落まで達していた。その瞬間二度目のギャーという叫び声が響
いた。

 続いて松島さんの「誰か来てー」という絶叫が聞こえた。10メ
ートルほど離れた場所で他の仕事を始めていた祐野課長があわて
てか駆けつけ、とっさに電源を切った。松島さんは茫然と立ち尽
くしていた。と思うと同時に松島さんはその場から逃げ出した。
切断された香月さんの体が投げ出され、あたりは血の海で内蔵も
散乱していた。

 巻き込まれた下半身はまだセリの上に残っていた。というのか
シャフトに惨たらしく張り付いていた。大きく広がった裾がズタ
ズタに引きちぎれ。裾に縫い込んであった金属製のベルトがゼン
マイのように締め上げられて香月さんの胴体を切断していたのだ。

 すぐに惨劇は舞台上の団員たちが気づき、恐怖の叫び声をあげ
たり、逃げ出そうとしていた。公演はメチャクチャになった。2
千人近い観客も総立ちになってた。事態を察したのである。

それにしても衣装をセリのシャフトにひき込まれ、右足が引き込
まれ始め、初め、右足を潰されながら次いで腰のスチール製ベル
トで腰を締め付けられながら。胴体が切断される恐怖は短時間に
せよ、その恐怖、苦しみは想像を絶するものだったろう、

  日舞の名手だった香月さん

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  昭和33年2月阪急友の会「明治の橋」で町娘に扮した香月さん
この写真を出来上がりを見ることなく逝去されました

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 その後:月組の出演者、登代春枝さんの証言

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 その日、私は魔女の扮装のまま、二階の楽屋で次の出番を待って
おりました。と、あのトランプの場に出ていた初舞台生が只事なら
ぬ叫び声を上げながら階段を駆け上がってきました。「どうしたの
・」と聞くと「死にはったんです」とオロオロしながら涙声、「え
!」と私は仰天して咄嗟に階段を降りようとしたらすでに階段の下
には劇場課の人が来ていて「降りないでください」と止められまし
た。私達出演者は楽屋にまんじりともせず閉じこもって口もきかず
シーンとしていました。不気味なほどの静けさでした。それから
しばらく経って、どれくらいだったか、関係者の方が上がって来ら
れ、「亡くなられた方にお化粧して下さい」と言われたので、私と
瑠璃さん、畷克美さんで早変り質に安置されて寝棺に眠る香月さん
、それは生前お好きだった華やかな着物にグリーンの袴という姿で
した。あのような無残な死を遂げたとは思われない眠るが如き安ら
かな死に顔でした。溢れる涙を拭いながら私は我が手にコールドク
リームをつけてお化粧の下地を塗ってあげました。そして畷さん、
瑠璃さんと代わる代わるパフと紅筆で美しくお化粧してあげました
。まるで生きているかのような錯覚を覚え、新たな涙が溢れてまい
りました。

 前例もない重大事故のため兵庫県警本部からベテランの鑑識課員
派遣されてきた。原因はすぐ判明した。 衣装の裾のスチール製の
ベルトがシャフトに巻き込まれ、胴体を締め付けたことで瞬時に
切断されたのであった。
ではなぜそれまで起きたこともない巻き込み事故が起きたのか?

 ✲春日野八千代さんの意見

 春日野八千代さん、昭和32年11月

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 「あのセリは、私たちがずっと前か非常に危険だと感じてい
ました。セリとはいっても狭い矩形の板で幅3メートル、縦が1.2
メートルくらいしかないんですよ、その上に裾の直径が1.3メート
ルもあるような衣装を着て乗らないといけなんです。いつ衣装が
シャフトに巻き込まれないかと、本当にヒヤヒヤでそのために演
枝にも身が入りませんでした。」


 このセリは大正13年製で宝塚大劇場建設当時からあったもので
セリの中では一番古い。前年の大改装で多少は改造されてはいた
が当時は一般にシャフトとセリの間にはカバーはなかった。

 ✣梅田(人名)宝塚歌劇団理事長の話

 「決して危険じゃありません。香月さんよりずっと広い裾の
衣裳で事故は一度も起きてないんですよ」

 羽山宝塚歌劇芸能課長

 香月さんも何度も乗った経験がある。死んだ方にこう申し上
げるのも心苦しいが、彼女はちょと慣れた段階で当然の注意さ
え怠ったのではないでしょうか」

 ✱香月さんのファン

 「(劇団の説明に対し)。・・・そんな、ヒロエちゃん(香月さん
のこと)は疲れ過ぎていたんですよ。夜稽古が毎日続いて、みな
さんノイローゼぎみだったんです。それに彼女は同組の日夏有里
さんの代役だったでしょ。ニワちゃんが扁桃腺を腫らして休んだ
ため同じ月組からの応援でした。気遣い、疲れもあったのではな
いでしょうか」

 ✱同期生の話

 「(疲れ、気遣いという話に対し)それは違いますよ。前の晩、
お風呂でも大はしゃぎでした。疲れて注意力散漫はないですよ。
代役も、もう三日目でした。慣れていたはずです。あのセリは
たしかに危険です、それこそが原因ですが、でも今まで事故が
なく、あの晩に限って事故が起きたというのは何かあったんで
はずです、不運やセリの危険性以外の何かがあったのでは」

 その何か、の要因は確かに存在したのである。

 警察もセリのシャフトの防護カバーを取り付けること、スチール製
の衣装ベルトを竹製に変えることだけを警告した。労働基準局は
深夜の稽古について警告した。

 検察は経営の最高責任者の白水半次郎常務(阪急電鉄)以下を
 不十分な管理による過失致死。で罰金5万円で全て終了した。

 以後、劇団は一貫して「この事故は存在しなかったことに、香月
弘美という生徒などいなかったことにしよう」という極度な隠蔽、
無視の姿勢をとり続けた。

✱ ささやかれた疑惑の検証

wikipediaの記述(香月弘美)、・・・この中で香月弘美は宝塚の雑誌
「歌劇」にも記載されたことがない地味でただ目立たなかった生徒
のように書いてある、さらに「刑事処分の結果は不明」などとある
が、とんでもないことであって香月弘美は人気のある娘役で刑事
処分は上記のとおりにに阪急電鉄幹部に罰金5万円の有罪で決着し
ているのである。

 私は昭和26年から昭和35年までの「宝塚グラフ」、「歌劇」を
全て購入し、仔細に検討したが香月弘美さんは写真だけでも両誌
で10回近く掲載されている。特に「歌劇」昭和32年12月、「宝塚グ
ラフ」同年同月号1には大きと取り上げられて写真が掲載されてい
る。死亡後の追悼記事はは除いてである。ウィキの執筆者はもう少
し勉強すべきだ。

  ✤不都合な偶然の

 1.代役

  宝塚ではスター、中堅クラスの出演者には必ず代役をつけて
おく習わしがある。代役は負担ではあるが逆に認められるチャン
スでもある。 したがって代役は正規の出演者よりも格下の団員
、基本的には同じ組に属す比較してやや若手生徒となる事が多い
。日夏夕里さんはその意味でやや香月さんに先行していたが、
香月さんも十分人気ある娘役であった。

 日夏夕里さん

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  研究科5年生中で、日舞、ダンスではトップクラスの実力だっ
った。花形を集めた「エレガント・ガールズ」の5人の中に選ばれ
るという大抜擢【昭和32年w5月、月組公演、鏡三枝子、木谷まり
、高千穂祐子、日夏夕里、香月弘美、マンハッタン物語第7場)


昭和29年初舞台前の41期生全員による記念写真(部分)

 香月さん後列、右から二人目、扇さんも見える、二列目右端が
日夏さん、香月さん、大島美鳥さんはまだ着物が出来ておらず私
服である。香月さんが小柄な方と分かる。

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昭和32年4月雪組公演(趣向を変えて月組からの応援も入っている)春
の踊り

 グランドフィナーレ、前列左から緑八千代、美山恵津子、沖ゆき子、
 中列左から日夏有里、香月弘美、木谷まり、筑紫野千鶴

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日夏さんは香月弘美さんの葬儀で気を失って倒れた、と伝えられている。
 それほど有能な踊り手だった香月さんがなぜ臨時的なセリフ、演技を
要求される代役に指名されたのか?有能だからこその代役だったはず。
 ただし代役に指定した人物は不明である。

 香月さんはただ代役を黒板に書かれた配役のリストを見てそれに従った
だけのことで演出者のあの白井鉄造氏に最終権限はあった。

 ✱(当時、花組研究科4年生の志摩好美さん)

 「白井先生もニワさん(日夏)が休んだ後で初めてヒロちゃんが
代役と知ったようでした。『君を代役と聞いて驚いたよ。君とは
もったいないけど、まあ張ってくれ』と言っていました」

  2.香月さんの当日の舞台衣装

 代役なので香月さんに合わせておらず、体の大きな日夏さん用
のものだった。したがって裾も広い。自分専用の衣装ならシャフ
トに引っかからないように出来たんでしょうが、不慣れなセリフ
まあ、出来たんでしょうが、・・・・・不慣れなセリフ、演技に
その大きめな衣裳で、不運だった。

 3.衣装の裾のスチール製ベルト

 それ以前は竹製ベルトだったが、竹では張り具合が悪いという
のでその公演にだけ、しかも3月26日から4月1日にだけ使われた
のである。

 4.セリの操作が専門の係員でなく通常はやらない公演係長が
やっていたという事実。

 だが、その遠因は阪急電鉄でのストであった。春闘での12時間
ストの最中で専門の係員は現場に応援でストの穴を埋めるため動
員されていたのである。

 ✥直接の原因は確かにシャフトに衣装が巻き込まれたことだが、これだ
けの不運が重なっていたのだ。

 ✱松島三那子さんはどうだったか?

 宝塚署と神戸地検は発生直後の状況を知るただ一人の証人として松島
三那子さんから事情を聴こうとした。

松島三那子さん (宝塚グラフ昭和33年12月号)」父親と

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 直後は松島さんは半狂乱で泣き崩れていたが、その後不意に
行方が分からなくなった。精神的に極度の動揺がある、松島さん
をまず隔離して鎮めようという劇団の意思もあったが、同時に
劇団自身が状況を松島さんから聞き取って、また警察でどう述
べるかの指導もあったと推察される。

 歌劇団理事長らに付き添われて宝塚署に出頭したのは4月4日
の昼過ぎだった。1日から4日までの行動、居場所は分かってい
ない。分かっているのはのは捜査員の前で泣きながら述べた陳
述だけである。

 「私はセリがまだ奈落まで降り切らない前に飛び降りたんで
す。衣装のタイツ姿で身軽だったし、次の場面での早変わりが
あってあせっていました。飛び降りて楽屋の方へ走るかけたら
ヒロエちゃんの悲鳴が聞こえました。驚いて「誰か来て」と叫
びました。


 しかしここにも疑問がある。兵庫県警の実況見分では、・・・

 香月さんの衣装がシャフトに捲き込まれ、切断されるまでに
は、6秒前後である。13秒でセリは最下点に下降するからその
かなり前に巻き込まれて切断されていたはずである。あわてて
飛び降りたら、後方で悲鳴が聞こえたは、あるいは劇団幹部の
指図とも受け取れる。

 スチール製ベルトが香月さんの胴体を切断し始めて松島さん
がそれに気づかないはずはない。香月さんがっシャフトに巻き
込まれ、切断に至ったその時間、セリ上で松島さんはそれを目
のあたりにしていたと考えていい。

 ただ、いずれにせよ極めて短時間、突発的に起こった意外な
事故だけに、何がどうであれ、松島さんを責めることなど出来
ないのも確かである。

 (花組,志摩好美さん)

 「何だかヒロエちゃんの最初の悲鳴も演技みたいに気がしま
した。誰もも最初は本当の悲鳴とは思わなかったんです」

 即座に電源を切っても、実地検証によれば、-惰性でセリは
セリは20㎝降下するこ都が確認された。すでに衣装がシャフト
に巻き込まれ、次の瞬間スチール製ベルトが強烈に締め付け始
めたら、さらに20㎝降下するだけで胴体は切断されてしまう。

多くの不運な要因が重なったにせよ、あまりに悲劇であった。

 、…これはただの偶然だったのか?

 ✱狭過ぎるセリに「定員」はなかったのか?そこで二人抱き
合うという危険性、シャフトが見えない状態、早変わりへのあ
せり。

 結局、事故の直接の原因はここにあると考えられる。春日野
八千代さんの証言にあるように、3mと1.2mの矩形(長方形)、す
ぐ危険な駆動シャフトがある、そこに二名の人が同時に乗って
危険ではなかったのか。春日野さんの言われるように「一人で
も引き込まれないかとヒヤヒヤの狭いセリに同時に二名、しか
も抱き合ったまま、周囲の状況はまず見えない。、松島さんは
着替えもあって気が急いている。抱き合ったままで急いでセリ
から飛び降りないとという気持ち、が結果として香月さんの姿
勢を乱す結果になった、としても自然である。ただ極めて短時
間の出来事で理路整然と説明はできにくいが、事は単純である
。狭いセリで衣裳がシャフトに巻き込まれただけである。その
防護策は何もにもなかったのである。


結論的に言えば、・・・・・
1.事故の基本的な要因は、狭い長方形(3m×1.2m)という超狭
いセリがむき出しのシャフトに接して上下するという危険性の
高い旧式な構造自体に存在していた。

したがって、そこで足を滑らせても直ちにシャフトに捲き込ま
れることになる殺人的なセリであった。だがそれまでは一般的
な構造であったという痛恨である。

 2.そのセリで身を守る唯一の方法は、決してシャフトが停
止するまで微動だにしないことだが、セリ自体に加速度がある
以上、それは容易なことではない。

 3.しかしその日、香月弘美さんと松島三那子さんが抱き合っ
ったまま(抱き合わないと狭すぎる)セリで降下することでセ
リの異常な狭さが増幅し、危険性が増大していた。


 4.安全のためには奈落に降下し、シャフトが停止するまで抱き合っ
た姿勢で二人が身動きしないことが条件だったが、松島さんが次の
場面での出演のための着替えが急がれていたため、奈落に達し、
シャフトが停止する前にセリから飛び降りた、-瞬間的にこれが突き
離す形になり、危険なセリでの身を守る条件の停止まで身動きしない
、がなされず香月さんの姿勢に大きな変化が生じたこと、・・・・

5

出演者の証言で「最初の悲鳴は、まだ演技の一部かと思った」と
いうくらいでセリがほぼ奈落に達するよりかなり前である可能性が
高い。 抱き合った状態でセリで降下、してすぐ何か起こったの
か?無論、何もしなくてもよろめいて転倒もあり得るが、・・・、

  ともあれ、・・・・・

 実際に事故が発生していないことによる知らず知らずの油断が
あったし、劇団の方でははなから対策などとる気がなかった。団
員も劇団もは防護の手段を講じることなど言い出せない状況もあ
っただが、ついに起きた最悪である。松島さんを責める事はでき
ない。松島さんはその二年後、アメリカ公演に参加したが、写真
撮影が趣味で多くの撮影をし「ヅカガールのアメリカ日記」とい
う本を著し、出版した。その本に、香月さんを追悼する文章を
かなり書いて、さらにその日のことも述べて劇団の逆鱗に触れ、
結果としてこれが松島さんの退団をもたらした。


その旧式で安全意識に全く欠けたセリこそが原因であり、宝塚
団員の奇蹟的と行って良い注意力でそれまではクリアーできて
いたにすぎない。長年、主演者に与えた不安、ストレスは大き
かった。香月さんの事故によってとりあえず、安全策が高じら
れたわけであるが、あまりにも痛ましいぎ犠牲であった。

 
 ✤香月弘美さんとは

 香月弘美さんは湘南白百合学園高校の1年から宝塚音楽学校に
入った。松島さんは学園の同級だったが中学を出た段階で彼女
は宝塚入りしており、宝塚では先輩である。

 湘南白百合学園は映画スター、タレント、タカラジェンヌを
輩出することで有名である、テニスの杉山選手も高校途中まで
は湘南白百合学園だった。

 昭和27年に香月さんは宝塚音楽学校に入った。昭和29年松島
さんは塚月組の男役として、香月さんも同じ月組の娘役として
デビューした。ただあまり友達付き合いはなかったといえる。

 「ヒロエちゃんが別の男役スターにすごく憧れていたんです。
宝塚ではよくあることですがヒロエちゃんは感情を隠さないの
でその強烈さがわかりました」というのは同期生の滝川末子さん。

 その男役とは月組男役トップの故里明美さんだという。故里
さんは香月さんの藤沢の実家にも遊びに行っていたし、香月さ
んも故里さんのハンケチを選択したりでいかにも宝塚乙女らし
い友愛があったという。

 宝塚グラフ昭和32年12月号の「故里さんとともに」という
企画記事、香月さんと共演、

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 「恋人よ、我に帰れ」のトゥの踊り子役の香月弘美さん(昭和33年3月)

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 珠玉のような最愛の一人娘が、・・・まさか宝塚でこんな無残な
死を遂げるとは、ご両親の悲しみはたとえようもなく深かった。
「宝塚に行かせていなければ」と悔いてみても全ては取り返しがつ
かなかった。まさか夢のまた夢にも思いもよらない悲運だった。

 お通夜の次の朝、藤沢から御両親が到着した。変わり果てた弘美さん
の姿にお母さんはわっと泣き伏した。通夜から側にいた高木史郎も何か
詫びを言おうとしたが言葉もなかった。高木は「花の中の子供たち」の作
者。

 お父さんは「初めは怪我と思っていましたが、今朝京都駅で新聞を見て
その死を知って仰天しました。春子(妻)はもうショックで口もきけません。
弘恵(本名)はたった一人の娘です。小さいころから稽古事が好きで6歳か
ら日舞を習わせました。宝塚に入ってからは松島さんとは無二の親友でし
た。松島さんと共演と言うのがせめてもの慰めですが、・・・・一応は代役
の責任を果たしてのことなので、・・・・・」と気丈に語って号泣した。

 セリの危険は以前から指摘されていた。宝塚歌劇団の怠慢が招いた悲劇
である。歌劇団の責任は限りなく重い。春日野八千代さんの言葉にもある
とおり、「まかり間違えばすぐに命取りの恐怖」は昔からあった。事故が起き
なかったのは奇蹟だったが、・・・・ついに起きた最悪である。

しかし香月弘美さんが事故にあわず、あのまま退団できていたらどれほど
幸福な人生が待っていたことか、・・・・・こんな無残な死で突然、人生を21
歳で終わろうとは、・・・・・真の意味の追悼で語られず、何か興味本位な
猟奇の対象として無慈悲な扱いが大半で、ーまったく普段は忘れ去られ、
宝塚の歴史からも抹殺され、たまに触れられたら何かオカルト的な好奇心
でしか書かれない、・・・・、なぜこんな不憫ななことになったのか、あまり
に可哀想で、私如き者でも、-居ても立ってもいられない気持ちになり、
真の哀悼の文章を書いてみたいと思ったしだいです。評価されるに十分
な芸の実力と魅力を備えていてなぜ不幸な事故への好奇心でしか語られ
ないのか、そこに切々たる彼女の悲運に満ちた哀しみの運命を見てしまう
のです。 なぜこんな悲しい結果に、哀切の情が迫り、胸の痛みを感じます。
このような素晴らしい娘さんがなぜ、・・・・・・・。香月弘美さまの死によって
宝塚出演者の安全が以後、確保されました。21年の痛ましくも尊い生涯で
あられたと思います。香月弘美さまの愛の心は結果として自らを犠牲にす
ることで宝塚出演者を永遠に救われたのではないでしょうか。



 香月弘美さま、あなたのひたむきな努力と愛と真心は決して
忘れません

 あなたは亡くなられてもあなたの愛の心は永遠にこの世に
生き続けます


  語り継がれるべきは猟奇ではなく、弘美さまの愛の心です

 そして

 永遠に21歳のまま天国に旅立たれた弘美さまのひたむきに生き
抜かれた人生の軌跡です。



いつしか忘れられ、歌劇団からはタブーとして抹殺され、・・

 ただ終わりのない悲しみだけが残った、・・・・・・・。

香月さんの音楽学校葬儀 右側の方が彼女のご両親

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  香月弘美さまのご冥福を心よりお祈り申し上げます

  安らかにお眠りください

  合掌

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 日夏夕里さんの追悼文

 

 私が休演する前日のこと、扁桃腺を腫らしてしまいました。
熱っぽい顔で楽屋でボーっとしておりましたら、「みっちゃん
無理しちゃだめよ、えらかったら帰りなさいね」と気遣って
くれた弘恵ちゃん、「うん、どんとこいですよ」と胸を叩いて
張り切っておられた姿に私は安心していました。

 私の代役であのような無残な事故にあって亡くなられてしま
って。私の胸は痛くうずきます。私さえ休まなかったら、そう
いう悔いは今も変わりません。

 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

 あの事故のあった朝、弘恵ちゃんはこの林芙美子の歌が好き
だといってました。その歌のとおりに、弘恵ちゃんの命は花の
ように短く儚く散ってしまいました。なんと短く悲しいことか
。神様はなんと無慈悲なのでしょうか。

 でも私を元気づけてくれたのは、弘ちゃんおご両親ですした
。わざわざ団葬儀の翌日、自宅を訪問してくださり、「亡くな
った弘恵の霊に報いるのはあなたが元気になられて舞台を務め
ることなんですよ」私の方からご両親に慰めとお詫びを申し上
げに行かねばならないのに、

 たった一人の愛娘をなくされました御両親のためにも、また
弘恵ちゃんのためにも私は全力を尽くし、これからも舞台に
精進させていただく覚悟でございます。


 沖ゆき子(月組組長)

 4月1日、東京の自宅に帰っていた私に、香月さんの事故死
を伝える電話が入りました。どうしても信じる事ができませ
んでした。

 「ヒロエちゃん、そばにいてあげられなくて本当にごめん」

 すぐに駆けつけ、弘恵ちゃんのまるで蝋人形のように美し
い死に顔に嗚咽が止まりませんでした。

 いつか私が雨上がりの道を歩いての帰り、車で着物に泥跳ね
があり、そうしたら弘恵ちゃんは自分の着物を出してくださり
、また私の着物を丁寧に洗って汚れをとってくれました。滅多
に自分の着物の柄さえ覚えない私が、あの時貸してくれた弘恵
ちゃんお着物の柄をはっきり覚えています。それほど温かい
弘恵ちゃんでした。

 私は月組組長として、大切な大切な人様のお嬢様をお預かり
させていただいている責任がありながら、全くその責任を果た
せず、これを機会に退団も考えました。

 事故後、5月以降「花の中の子どもたち」続演には、内部から
も外部からも批判がありました。それでもあえてやろうというの
な、弘恵ちゃんの御両親の「弘恵のためにも続演をお願いいたし
ます」という励ましのおかげでした、

 私はなにもしてあげられなかったことを深くお詫び申し上げ
まうs.と同時に弘恵ちゃんの愛した宝塚の月組のためにも
公演の無事終了を念願しております。天国の弘恵ちゃんに見守
ッていただきたいと思います。

                     
 宝塚グラフ昭和33年5月号より

   悲しみの歌劇団葬

  さる4月1日夕、「春の踊り」開演中の大劇場で事故死された香月弘美さん
の歌劇団葬が4月11日午前9時半から、宝塚音楽学校でしめやかに執り行わ
れました。
 天津乙女ら在阪全生徒をはじめ、阪急電鉄和田社長、小林専務、歌劇団の
梅田理事長、菊田東宝重役らが参列、悲しみのうちにも盛大な最後の別れで
、生徒一同の音楽学校校歌合唱に始まり、和田社長、梅田歌劇団理事長、
天津乙女、沖ゆき子の声涙下る弔辞に、式場はむせび泣きに包まれ、ついで
同期生近衛真理らが、香月さんが生前に愛唱していた「若き日の花咲爺」の
主題歌を涙のうちに合唱しました。
 10時からは一般会葬者の献花が行われ、阪本兵庫県知事、森重久弥、
乙羽信子さんらの姿も見えました。その献花の一ひら一ひらが今は亡き香月
さんに、さようならと告げる言葉となって、霊前に捧げられました。



【香月弘美さんをしのびて】  歌劇団葬における追悼の言葉

  天津 乙女

 弘美さんの明朗で真面目なお稽古姿や、舞台姿が今でも私の眼に浮かんで
おります。

 私とは日本舞踊のお稽古でいつもご一緒でしたので、日一日と磨かれてゆく
芸の将来を楽しみに見ておりました。
 春の踊りで宝塚の舞台を踏まれてからわづかいくとせ、めぐり来た桜咲く春の
日に、希望多き若い生涯を失ってしまわれたことは悔やんでも限りない悲しみ
でございます。

 舞台人が舞台の上で命を失うのは舞台人の本望といいますが、それは昔の
ことで人の生命は何物にも代えられぬ尊いものだと思います。
 弘美さんのこの犠牲を私たち歌劇団員は決して無にすることなく、あなたの
魂を抱いてこれからの舞台を踏んでゆくことでございましょう。

 心から弘美さんの御冥福をお祈り申し上げます。


   沖 ゆき子

 ヒロエちゃん

 今こうしていても、どこからかヒロエちゃんがひょっこりと、いつもの明るい笑顔
で、あらわれてくるような気がしてなりません。

 “ ウソだったのですよ!あれはエイプリルフールだったのです ”

 そういってヒロエちゃんが出てきてくれるのを、毎日々々夢の中で待っており
ましたのに、・・・・・。

 ヒロエちゃんの元気なお稽古姿や、舞台の姿が私の瞼のなかにいきいきと
やきついているのに、ヒロエちゃんがもう再び会えない遠いところに行ってしま
ったなんて。それこそウソだとしか思えません。

 ヒロエちゃんは清く正しくの言葉どおりに、よき宝塚生徒として一日もお稽古
を休まなかった熱心な人でした。ですから二月の阪急友の会公演の芸者にな
った時には、こんなに立派になって、・・・・と私もうれしかったものです。

 これからぐんぐん伸びてゆく春の若芽のようなヒロエちゃんは幾多の希望や
夢を抱かれていたことでしょう。
 いつも”いちどセリに乗ってみたい”とヒロエちゃんは言っていましたね。大好
きな舞台で望みどおりセリに乗って、その春秋に富む若い生命を断つなんて、
あなたは考えても見なかったでしょうに、・・・・・それを思うといくら悔やんでも
悔やみきれない気持ちがいたします。

 残された私たちはヒロエちゃんが死を以て尽くされた舞台を、あなたの魂を
抱いてふんでゆきたいと思います。

 私たちでさえ一生忘れられないこの悲しみを御遺族の方々は如何ばかりか
と思えば、今はお慰みの言葉もございませんが、みんなの心からの冥福のお
祈りを、ヒロエちゃんも天国から聞いて下さるものと、これをせめてものおなぐ
さめとしたいと思います。

 ヒロエちゃん、どうか安らかに眠って下さい。

                                     さようなら


【宝塚グラフに寄せられたファンの投稿】

 無意識のうちに目は新聞の「宝塚の生徒圧死」との見出しの新聞記事に走っ
ていました。そしてそこに出ていたのは見覚えのある香月弘美さんの写真でし
た。ハっと我に返ってむさぼるように二度、三度と読み返しました。あまりにも
無惨な悲劇的な逝去。ただ漠然とした何とも言えない気分に襲われ、しばらく
はボーっとしていました。すぐには信じることは出来ませんでした。

 若く、これから宝塚を背負って立つ娘役でしたのに、・・・・。日本物の娘役を
と香月さん自身は望んでおられたのですが、さらに昨年はエレガント・ガールズ
という大役に抜擢されたほど、ダンスにも優れていました。モダンバレエ、トゥ、
タップ、マンボ、・・・とそのレパートリーも広くさらに歌唱力も、と三拍子そろった
有望な娘役であられたのに、惜しまれてなりません。

 体型が美しくラインも見事な舞台はそのしなやかな肢体には常に若さがあふ
れていました。昨年8月の「マンハッタン」物語で上京されての公演では、人
なつっこい笑みを浮かべて私たちを迎えてくれました。そして私が話している間
も、あの大きな目をクルクル動かしながら、いちいち、頷かれて聞いてくださいま
した。そして江の島の自宅に一度遊びにいらしてと言われた時には飛び上るほ
ど嬉しく、天にも昇るような気持ちで家に帰りました。時には愉快な冗談を飛ば
して笑わせてくださる、本当に感じのいい方でした。でも、その時の訪問が最後
の訪問になるとは思いもよりませんでした。その後お電話した時は、ご自宅
までの道順や乗り物なども詳しく教えて下さいました。でも、・・・ついにそれは
実現しなかったんですね。

 不運と言えばあまりの不運、残酷に亡くなられて諦めることも出来ません。
その場にいなかった私ですが、その時の光景がありありと浮かんできます。
二度とこのような事故が起きないよう、そして香月弘美さまの御冥福を心よ
りお祈り申し上げます。

                               (横浜市の女性ファン)

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宝塚全生徒の見送りの中、告別式が終わり、御両親の胸に遺骨は抱かれ、
藤沢の実家に車で出発。ひたむきに生き、暖かい心で周囲を魅了された21年
の生涯でした。

 私たちは永遠にあなたのことを忘れません!

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