大阪人の左翼、リベラル的反中央から右翼的反中央への転換


 改めて考えるとなぜ元来、下積み的な住民が非常に多い土地柄
?のはずが、日本の右傾化の先端を切るような地域になったのか
、今の時点で何が言えるか、である。歴史的には保守系の知事が
戦後続いた、全国知事会のボス的存在だった赤間文三、それを継
いだ形の左藤義詮、ところが1971年4月の大阪府知事選挙で共産
党系の大阪市大法学部教授の黒田了一が当選し、二期つとめた。
京都の蜷川共産府政は例外的としても、全国的に革新自治体が
続出し、既存の知事、市長の革新転向が目立った。国政レベルで
も共産党の「倍々ゲーム」という現象さえ起きていた。

 大阪は基本的に公明党、創価学会と共産党が強く、また中小企
業が多い関係で民社党支持者が多かった。自民党は至って低調で
あった。ただ現実、戦後、赤間、左藤府政が続いていたのは紛れ
もない事実だ。現在の右翼的傾向の素地が実は存在していた、こ
とは指摘されるべきである。

 共公戦争と揶揄される程両陣営の勢力は強く対立もしていた。そ
レが変わったのは読売新聞、つまり全国紙の大阪本社の「関西の復
権キャンペーン」熱狂的は泉南への関西新空港誘致運動、黒田知事
の落選、官僚出身の岸昌の大阪府知事就任でその読売、また一部は
産経の関西の復権キャンペーンがこの時代は大きな影響があり、保
守系知事の誕生をなにか政治色抜きで実現したと言える。

 1995年の大阪府知事選挙、参議院議員だった横山ノック担ぎ出
しに大阪の芸能人立ちが大きな役割を果たした、対する保守系は
官僚出身だったが、大阪外語出といういささかスケールの小さな
人物で魅力に欠けた。この当時、大阪の芸人の選挙での応援は

 「このままではまた官僚出身者が府知事になってしまいまうs」

 まだまだ大阪の反官僚、反中央意識がベースになっていたので
そこで偶然、素行に難はあるが参議院議員の長年の経験がある横山
ノックを、でまとまった、・・・・・ノックが当選した。その直後
の朝日の社説は

 「お大阪にはノックが似合う」太宰治の富士山には何とかが似合
うの流用だが、・・・・当時の雰囲気が推し量れる。

 だが好色が災いし、辞職、臨時代理の後、当選は前、岡山県副
知事、掲示あ官僚出身で石井に引き立てられれ副知事に、いつか
美観地区でさっそうとブーツを履いてこちらに歩いてくる背の高
い女、思わず私は避けてしまった、くらいだが、この大田房江が
大阪府知事に保守系に推され、立候補、あまりにノックの素行の
悪さが流れを大きく変えてしまった。

 だが、大阪の特殊な事情、

 リベラル傾向の地域地元新聞が存在しない、全国紙の大阪本社
発行がそれに代わる。

 それらが放送局を支配している。読売テレビである、この存在
がある意味、大阪それ以上の日本の政治的潮流を変えたと言える。

 横山ノック担ぎ出し、当選に見られた「大阪人への地元芸能人
の影響の大きさである」

 右翼論客を揃えた「そこまでいいって委員会NP」である。
やしきたかじん司会、ここでデビューしたそれまでは無名の橋下
徹である、この番組が劇的効果を与えたことは確かである、大阪
不眠の鬱積した不満が右翼に転じたのである、だから単純に自民
党勝利といかず、その政党、維新の天下がいまだに続いている。

 公明、共産、はたまた中小企業に支持基盤があった民社は、な
にか散り散りとなった。創価学会の退潮とも一致している。創価
学会の戦後の常勝関西は昔語りになった。夢が、希望が右翼に転
じた、ある種の反中央意識はあるから自民へと単純には向かわな
いにせよ、しょせん配信は自民と同類項であることに変わりはな
い、保守化である、単に保守化を超えた反動化である。

 この現象は戦後の赤間、左藤時代に一脈通じる、大阪府民に
横たわる保守性の性格である。

 大阪芸能人の右傾化への影響は著しく大きい、松本などは安倍
べったりでその典型にせよ、この波に乗り遅れるなと多くの大阪
芸人が右傾化のお先棒を担いでいるのは紛れもない事実だ。

 もうかっての共産、公明への支持は消滅なのだろうか、そうだ
ろう。

 在日が非常に多く、下積みの人々が多い土地柄だが、なにをどう
お考えなのか、反中央の残渣はなおあるにせよ。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック