日本債券信用銀行、本間社長の変死事件

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 c0139575_1322943.jpgこの世は不審死というものがある。そういう場合、何かどこから
か力でも働くのか、「自殺」として処理され、結局、真相の解明が
放棄されることが珍しくない。無名の市民なら警察が仕事をしたく
ない、ことは大きな理由だし著名人ならその理由もあるが、得体の
しれない圧力があるのかもしれない。

 今年4月だったか、大阪駅の北側にある阪急インタr-ナショナル
ホテルでフランス料理で会食した、今まで食べたフランス料理で一
番、豪華な気がした、宮殿のようなゴージャスなホテルだったが。
そこで起きた奇妙な不審死。

 もう話は遡るが2000年9月19日、日本債券信用銀行の本間忠世社
長が出張先の大阪市北区のホテル、阪急インターナショナルで「
首をつって」亡くなったという事件が起きた。

 同行はその半年前にソフトバンク、オリックス、東京海上の三社
連合に譲渡されていた。2001年1月からは「あおぞら銀行」として
再スタートするという矢先の事件だった。

 日債銀は1997年4月、バブル崩壊で約3000億円にのぼる巨額の不
良債権を処理しきれなくなった系列ノンバンク3社の自己破産を申
請、同行への経営不安が一気に高まった。

 1994年には東京協和、安全の2つの信用組合、1995年には兵庫銀
行とコスモ、木津の2信組、1996年には阪和銀行と連続して金融機
関が破綻し、旧大蔵省、日銀はこれ以上の銀行の破綻はどうしても
避けたかった。ここで思いついたのが大手銀行34行による日債銀へ
の増資である。

 日銀が800億円の特融を行い、これに並行して、大蔵省の幹部が
自ら銀行を回って各行に最大限の融資を迫ったため、「奉加帳増資
」と揶揄された。増資を強要された形の銀行は反発を示しながらも、
当局の意向には逆らえず、総額2000億円強の資金が集まった。

 奉加帳方式が採用されたのは、その前年12月、住専処理のために
6850億円もの公的資金が使われ、国民から大きな批判を浴びたこと
が挙げられる。地銀や第二地銀は日債銀の金融債を大量に保有して
おり、日債銀が破綻すればそれらは紙くずとなってしまい、自らに
大損失を生んでしまう。その「奉加帳方式」を推進したのが大蔵省
の中井省審議官と、他ならぬ日銀の本間忠世信用機構局長だったの
である。その張本人が日債銀のトップになるのだから、金融業界も
納得がいきかねたのは言うまでもない。

 本間氏の突然の死については多くの憶測が飛んだが、バブル期に
貸し付けた巨額の不良債権の処理のトラブルに巻き込まれたという
声が少なくなかった。金融庁はのち2001年10月、旧長銀や日債銀の
資産内容を調査した金融再生委員会の議事録を公開し、日債銀がい
わゆる反社会勢力に対しての融資が1000億円を超えていたと発表し
た。

 こういう声がある

 「本間氏は、その筋の得意先数社に融資の中止、まるいは金利の
支払いの督促のため大阪に出張しました。銀行はバブル時代、コミ
ットメントライン(融資手続きを簡略化のため、予め設定しておく
手法)を盛んに使い、手数料を稼ぎました。裏社会にも融資したん
です。でもバブルが崩壊した途端、手のひらを返しました、そこで
裏社会から逆恨みされたケースは数知れません。本間社長もそうい
う裏社会とのトラブルに巻き込まれたと思われます」

 本間氏が不審死を遂げたその日、中井審議官に面会したある人物
が「さっき、本間さんが自殺した、という変な電話があった」と怪
訝そうな顔をしていました」

 自殺とはいうが、自殺した紐をかけたという「カーテンレール」
に歪みがなかった、司法解剖もされずそそくさと火葬された。

 ある日債銀OBは当時を回顧してこう語る

 「本店内で事件の説明はなかったですね、本当に自殺だったの
かどうか、銀行葬?なかたtですね」

 あおぞら銀行はその後外資系銀行となった。ある幹部に聞くと

 「外国人幹部が幅をきかせて大変やりにくい、あの事件は行内
ではもう風化しています」

 ただ本間氏が阪急インターナショナルに宿泊したその部屋の隣
に宿泊した森公美子が

 「騒がしい隣室に立腹し、フロントに苦情を入れていた」こと
が報じられ、さらに疑惑を呼んだのは事実だ。誰か本間氏以外の
人物がいた可能性は高い、一人芝居はありえない。

 森公美子はこう書き込みしていた

 「ねー、ブルーになる話だけど昨日、日債銀の社長が自殺した
っていうでしょ。私の部屋の隣だったのよ、」

 「『そー言えばだめだな』とか『監察』という言葉が聞こえた
わ。だからうるさいのでフロントに苦情を入れたのよ」

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