大川内令子、金子光晴の女にして妻


 IMG_1436.JPG1976年に(かって一世を風靡した?)ペップ出版から刊行され
た「金子光晴のラブレター」大川内玲子の談話を江森陽弘が書い
たもの、「まえがき」からだと、・・・・・

 「金子光晴の『通夜の客』に、妙なご婦人がいた、という話を
友人から聞いた。色の白い、小柄な中年女性だという。ただ泣く
くだけで、金子光晴のお弟子さんに付き添われていたという。『
しかし』と友人は話を続けた。この女性が帰り際にもらした言葉
が気になるという。

 『森三千代さんも悲しいでしょうが、私も悲しい』といって、
深夜の東京郊外の吉祥寺の街に消えたという。友人はさらに『と
にかくあの婦人には腫れ物に触るような、神経の使いようでした


 私は無性にその女性に会いたくなった。しかし、名前も住所も
全然わからない。・・・・・結局、金子光晴の友人で詩人の秋山
清に聞くことにした。・・・・・秋山氏は気さくに話してくれた
。初めて『大川内令子』さんと分かった。金子のでは愛人か?と
聞いたら愛人でも恋人でもなく(一時期はそうであっても)、あ
る時期、れっ木とした妻であったという。」

 そこで江森陽弘は取材を申し込んだ。面会し、金子光晴の手紙
を掲載して本にしたい、と申し込んだ、拒否のまま何ヶ月か過ぎ
た。だが「根負けしました、私が金子の陰の女でないことを認識
されたされたなら協力いたします」ここから大川内令子の取材を
筆記していく作業が始まった。

 別の資料によると、令子は朝鮮の詩人や、柴田元男や牧のほか
にも、江口真一なども訪問し、教えを請うている。やがて牧章造
を通じて北川冬彦の主宰誌『時間』などに入会し、創作に励んだ


 この年に起きたのが金子光晴との遭遇であった。『金子光晴の
ラブレター』にも時期の記載はない。二回目で早くも金子の「愛
の告白」を受ける。「S」の紹介とある。柴田元男だろうか。

 金子はぬけぬけと「僕と森三千代は、仕事の関係でもう離婚し
ているんじゃ」

 で四回目に詩人、金子光晴は当時処女の大川内令子を旅館に
誘った。

 「旅館の玄関の前で、二、三分私は待たされまして、その間、
金子は『旅館やさーん」と呼んでました。やっと女中さんらし
き人が出てきました。胡散臭そうな眼差しのあと、『おやすみな
んですね』といい、先立って歩きはじめました。・・・五十歳
過ぎの男から見れば私などは、私などは子供なんでしょう。金子
はこうして足の指の一本一本から全身に渡って愛撫してしてくだ
さいました。・・・」

 で牧章造宛の令子の書簡

 「今日は有難う存じました。・・・この頃、発表するほどには
自分の作品が優れていないということに気づき、人目に触れるこ
ことに羞恥を覚えます。

 今日同封いたします原稿は詩ではございません。ただ何故官能
の世界に低迷するかということに説明を綴り、牧様や、私の詩に
興味を感じる方に分かっていただきたいのです。ある精神過程の
通過から、実際上には堕落し得ない私も観念の上では頽廃せねば
なりません。

 ただくした行き方が多くの人たちから品性を疑がわれるような
結果になると存じます。私は名誉を犠牲にしても芸術の上に妥協
することは潔していたしません。・・・」

 昭和25年8月12日付けの令子の牧宛の最後の書簡は金子の影響
が歴然と見える。

  私は絶対戦うつもりです



 「貴男の作品掲載の『文學界』は作家の某氏が私から借りていき、
私がまた取りに行きましたら他人に渡したとか、行方知れずです。
もう書店を探しても入手できません。途方に暮れました。・・・

 小説おかきになっていられますか。私は刻苦勉励、暑さのなかd
ペンを握り続けておりました。今の文壇にどういうものが通用して
いるのか、その作家たちが何を考えているのか、この頃ようやく
分かってまいりました。私は絶対戦うつもりです。彼らが互いに
馴れ合っている文学常識に根底から刃向かうつもりです・・・」

 『文學界』を令子から借りだしたのは作家の某氏とは間違いなく
、金子光晴だろう。

 『金子光晴のラブレター』では令子の最後の談話がこうある。

 「私は金子光晴の妻だったオンナです」とはっきり申し上げま
す。

 「私は金子の童女、情婦、女弟子、愛人、恋人、娘、養女でも
あったオンナです」

 「貴重な三十年でした、女として本当に幸せでした」

 だからこうして、今も強く生きてるじゃありませんか、男の人
たちに混じって。

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 宮崎への講演旅行  右から3人目が金子光晴、その後ろに
寄り添う大川内令子

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