金子文子を通して見る韓国の日本併合
さすがに市民が立ち上がり始めた。政府や政治家、メディア、ま
たネットでのネトウヨの露骨な時代錯誤のヘイトで日韓関係が崩壊
寸前、というか崩壊する市民感情から極度に遊離した現実の酷さを
みて。・・・・民族差別感情、憎悪が長い歴史に根ざしたものにせ
よ、21世紀になってのこのような国家的なヘイトは見過ごせない。
私は金子文子の著書『何が私をかうさせたか』その他を通して
日本の韓国併合、支配を改めて考えるべきだと思える。
金子文子がはめられた「大逆」の罪、その予審法廷でこう彼女は
語っている。
「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する反逆的気分を除き去
ることは出来ないのでありましょう。私は大正8年中朝鮮にいて
朝鮮の独立騒擾の光景を目撃し、私すら権力への反逆的気分が起
こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人の事とは思い得ぬ
ほどの感激が胸に湧きます」(1924年、大正13年1月23日第四回
訊問調書)
ここに金子文子の思いが表されている。ここで他人事とは思えな
い、というのは9歳から16歳までの朝鮮での生活体験である。その
自伝『何が私をかうさせたか』で存分に述べている。朝鮮での生活
体験はこの本の四分の一を占めている。そこでは朝鮮での生活で受
けた虐待の体験と何の希望もない日々が回想されている。
日本の大審院判決で「私生児として生まれ幼にして父母相次いで
他に去り、孤独の身となり、その慈愛に浴するを得ず朝鮮その他
各所に流寓して備に辛酸を舐め・・・」と書いている。大審院の
死刑判決の翌日、日本の朝鮮支配を支える日本語新聞も、その原因
を養子先の虐待に求めたが、実は文子は大審院や末端の住民の判断
を超える意思を獲得していた。
文子自身に自己の不遇さを超えて、朝鮮半島が日本に支配されて
、その現実が如何なるものであったかを七年間の生活体験を通して
洞察を深めていた。両親からは見放され、父方の親族から受けた
虐待の被害者としてでだけでなく社会の問題として把握し得る認識
を深めていた。
文子は一度十代で自殺を試みたが寸前に朝鮮の自然とのふれあい
から思いとどまった。「世界は広い」という認識にいたって自己
の力で生き抜くということを決意する。栗拾いで裏山に登った体験
からいっときの自由を得たことを述べている。自伝の中で。同時に
頂上からの眺め、朝鮮の人々が日本の官憲から虐げられている現実
を目の当たりした。それは日常、周囲にあふれていた。
十代は仕方がないと日本の官憲の朝鮮の人への迫害を座視するし
かなかったが、徐々に自立の考えが芽生えていった。知識欲が芽生
えた。東京に出てから唯一の女性の友達で同志でもあった新山初代
、また日本と朝鮮のアナーキストとの交流を通じて、その自由平等
主義は徹底して磨かれたといえる。
朴烈斗の出会いでその人物の中に惹かれるものを感じた。「私は
日本人です、でも朝鮮人に何の偏見もありません。それでもあなた
は私に反感をお持ちでしょうか」と同志としての交際を始めた。
1922年、大正11年から世田谷の池尻で同居を開始した。同年7月に
創刊された『黒濤』を朴烈と主宰。11月に日本人同志と黒友会を結
成、朴烈と新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆、第二号に『所謂
不逞鮮人とは』を執筆、
その根底にあるのは朝鮮での生活体験、日本支配の現実を目の
あたりにしたことである。
かくして朴烈事件、これを大逆事件にフレームアップした日本
官憲で大審院で死刑判決に至るのだが、・・・・・
最期は戦争文学の寵児となり、敗戦直前、フィリッピンで戦死
した従軍作家としてだが、里村欣三は1926年5月の『文芸戦線』
に「思い出す朴烈君の顔』というエッセイを寄せた。
「私もまた一面識を持つ朴烈夫妻の今日の断罪を聴いてぢっと
していられない。それかといって何も出来ない自分の☓☓を思っ
て、さらに自分というものが嫌になる。」
「金子さんは女学生のような袴をはいて中西さんの『汝等の背
後より』を抱えていた。よく笑って端切れのいい調子で快活に話
す人であった。靴が馬鹿に小さかった」
プロレタリア作家としてデビューした里村欣三は金子文子、朴
烈への共感を隠さない、数少ない日本人表現者であった。
細田民樹の「黒の死刑女囚」1929年12月号、中央公論、は文子
をモデルにしていた。実際に予審判事に当てた文子の手紙が使わ
れている。
「今朝6時過ぎ、朝食前の仕事に、二三日前差し入れられたある
ロシア人作家の論文集を開いてみたら、ふとこんな文句が目につ
いて、あなたに説教する
『生きることを欲する人間に、生きることを欲しないように説
教することは滑稽である。人生が直接満足を与える人間に向かっ
て、彼には生きることが極めて不愉快であろうと語るのは誠に
滑稽である・・・・』」
また文子が立松判事あての書簡に老いてこう書いている
「乞食をしてでも生きたいという人間にとっ手は生きること
は最上の価値であろうがが、乞食をせずとも死にたいという人
間にとっては、それは三文の価値すらない。」
「生きたいものは生きろ、而して死にたいものをして死なしめ
よ。其処に人生の真実がある]6
『金子文子全歌集 獄窓に想麩』は文子の死の後、刑務所から
宅下げされた歌稿である。墨で消されたものもあった。
うつむきて股の下から人を見ぬ夜の有さまの倒が見たくて
手に採りて見れば真白き骨なりき眼にちらつきし紅の花
追い求めた美しい紅の花は手にとった瞬間に、しらじらとした
骨に変わった。それは深い絶望だがその純白さを感じ取るべきで
あろうかどうか。
死直前の金子文子 望月桂
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