禅僧・朝比奈宗源がなぜ日本会議の源流になったのか


 IMG_1872.JPG日本の宗教、またそれを国家神道との関連で考えた場合、
奇異に思えるのは、明治の国家による新宗教、「国家神道」
が仏教を撲滅し、無仏の世界とすることを当初しばらくは
目指し、現実に廃仏毀釈が激烈の行われた、国家神道こそが
仏教否定の根本的なコンセプトを有していたにもかかわらず
、その仏教界の有力人物が国家神道、近代天皇制に帰依した
と思われるケースが多いことである。これは矛盾であるはず
だが例えの話、浄土真宗で戦前、大正期から昭和初期にかけ
て大きな影響力を持った暁烏敏(あけがらすはや)、1936年
11月の公演であ「今までは親鸞聖人の御手引で聖徳太子の下
に連れてこられたが、今は古い日本の神々の御手引で聖徳太
子の下に連れてこられている。日本の国体精神を明らかにす
るためにも聖徳太子に出会わなければならないのです」、「
日本精神は主義ではない、人間の考えるような主義とは違う。
皇祖皇宗の御魂が日本精神であります」

 こういう具合で、さすがに日蓮正宗は日蓮第一主義だから
それはあり得ないが、だから戦時下、不敬罪て摘発され、牧
口は獄死したのである。

 さて、日本会議である菅野完の著作などで話題沸騰だった
日本会議もさほど取り上げられなくなったが実態は全く変わ
っておらず改憲を急かしているのは日本会議である。

 日本会議の発足は1997年5月である。「日本を守る国民会
議」と「日本を守る会」が合流したものである。「日本を守
る会」は宗教関係者が多く、1974年に発足していた。右翼的
宗教団体の集まりというより、宗教界の右翼系有力者たちに
よる横断的グループであった。

 そこにいたのは朝比奈宗源(臨済宗円覚寺派管長)、谷口
雅春(生長の家総裁)山岡荘八(作家)、関口トミノ(佛所
御念会会長)、金子日威(日蓮宗管長)、清水谷恭順(浅草
寺貫主)、伊達巽(明治神宮宮司)んど、

 仏教、神道、キリスト教、伝統宗教、新宗教などの右翼的
人物、その団体自体が右翼的なケースも有る。

 管野完の著書など、多くの日本会議関連書が谷口雅春の影
響をことさら強調している。生長の家の右翼学生運動組織の
日青協が日本会議を仕切っている、とも強調しているが、さ
りとて日本会議は誰の提唱で発足したかとなると、谷内雅春
ではなく朝比奈宗源なのである。谷口も朝比奈に誘われる形
で日本会議に加わったの過ぎない。日本会議の生みの親は、
仏教徒の朝比奈宗源である。

 朝比奈宗源は1891年、明治24年1月9日、現在の静岡市清水
区の農家に生まれた。幼名は源ニ、六人兄弟の末弟であった
。5歳のとき母が亡くなり、6歳で父を失って叔父の所で育て
られた。貧しかったが成績は優秀で、両親の早世は宗教心を
芽生えさせたとされる。10歳で小学校を出て、近在の僧侶の
紹介で、臨済宗妙心寺派の清見寺に入った。

 清見寺は7世紀創建とされる古い寺で、朝比奈が入った頃は
小僧が十数人いたともいう。。朝比奈は住持の坂上宗詮を師
として11歳で出家、法名の宗源はこのときからである。1,909
年、18歳で京都の妙心寺僧堂に入り、禅の修行を積み、飛騨の
山中の小屋で四ヶ月間、集中的な接心に励んだ。1917年、26歳
で鎌倉の円覚寺僧堂に宇津井、釈宗演に参禅。宗演は明治期に
渡米して禅を広めた。

 朝比奈はその後、宗演の弟子から印可を受けた。そこころ、
鎌倉の浄智寺の住持となったが、1919年には日本大学宗教科
二部に入り、三年間学んだ、禅宗以外の宗教も積極的に学ん
だ。戦時下の1942年、51歳で円覚寺住職となり、終戦直前の
1945年4月に円覚寺派管長に就任。以後、生涯、その座にあ
った。

 1938年、朝比奈は円覚寺派を代表として中国大陸に渡り、
約二ヶ月従軍布教。1940年に『皇民道徳宝典』を編纂、「
わが皇民道徳の思想的徹底を計らむとねがう」、教育勅語
、天孫降臨、五箇条の御誓文などを収録。皇国史観、思想を
、また戦意高揚を計る内容であった。

 仏教徒なら釈尊に帰依し、不殺生を守り、これを布教すべ
きはずが皇国思想に酔いしれて戦争に協力とは許されないこ
とに思えるが、この時代ではごく当たり前であった。ほぼ全
ての仏教宗派がこぞって皇国思想に染まり、戦争協力を行っ
たのである。

 戦後の朝比奈はまず「世界連邦会議」という平和的団体に
加入した。国家間の対立から世界大戦が二度も生じたことへ
の反省で全世界を単一国家にしようという運動である。人類
が国家間の対立に身を任せないことを目指した。1946年には
世界連邦実現を目指した、国際的な民間団体ガルクセンブル
クに設立された。1948年にはその日本支部である、世界連邦
建設同盟が結成され、キリスト教徒で社会運動家の賀川豊彦
が中心となり、朝比奈も加わった。初代会長は尾崎行雄であ
った。

 なんとも絵に書いたようなリベラル、平和主義的だったが、
1960年に賀川豊彦が亡くなると朝比奈は右傾化を見せ始め、
1963年、朝比奈の肝いりで「世界連邦運動推進のため」とし
て「世界連邦日本仏教徒協議会」を結成、朝比奈が代表に就
任した。最初は仏教徒中心だったが神道、キリスト教、新宗
教も加入した。1967年「世界連邦日本宗教委員会」が結成さ
れた。

 年に一度、大会を開催し、第四回までは連続して仏教寺院
で行った。そこで第五回はできたら神道で、という朝比奈の
発案で伊勢神宮に開催を要請、意外にも伊勢神宮は快諾した
。この伊勢神宮開催が決まったとき、朝比奈は伊勢の大神、
つまり天照大神からこう叱責された気がしたという。

 「そなたは目を外にばかり向けておる。世界だ、人類だと
いって足元はどうだ、日本はこれでいいのか、気をつけろ」

 本当にそうだったかどうか、こうあってほしいという朝比
奈の自作自演だと思えるが、潜在的に朝比奈に左派への懸念
があり。左翼勢力がこれ以上伸びたら、という危機感がつい
に、「世界連邦」を打ち消し、憂国救世の闘士としたゆであ
る。これ以後、朝比奈は右翼まっしぐらとなった。

 1973年、伊勢神宮での世界連邦日本宗教委員会を契機に
、朝比奈に同調する右派宗教家によって会合が持たれ、1974
年4月「日本を守る会」の創立総会が開かれた。

 「日本を守る会」の基本運動方針は

 ●我が国の伝統精神を則り、愛国心を高揚し、倫理大国の大
成を期する。

 ●正しい民主主義を守り、明るい福祉社会を建設する。

 ●偏向教育を排し、広く教育を正常化する

 ●言論報道の公正を求め、唯物思想や独裁的革命主義を排除
する。

 まだ改憲の記述はないが、日本会議の方針とかぶっている。

 黒衣の宰相経となった朝比奈

 この頃から朝比奈は「黒衣の宰相」よろしく保守政治家の間
で指南役として重宝されている。自民党の月刊機関誌において
「最近の日本人は根性がない」、「信念と気迫で日本を守れ」
などと放言を繰り返している。

 禅宗、仏教界の重鎮でありながら右翼的国家主義、皇民思想
に溺れる朝比奈を批判的に見る人もいた。

 丸山照雄は1977年5月、雑誌で「政治に溺れ道化禅師」を皮
肉った。

 「日本を守る会」創立総会から5年後、1979年8月25日、
朝比奈は88歳で死去した。

 朝比奈は臨済宗円覚寺派という伝統仏教の代表ではあったが
、円覚寺派自体は臨済宗の15の宗派の一つでしかなく、動員力
は乏しくカリスマ性もなかった。やはり生長の家、その右派学
生組織、日青協などの力が大きかったにせよ、本来、右派、
皇国思想に溺れる道理はない禅僧、管長、が伝統仏教から逸脱
して国家神道擁護に走ったことは妙な力になったのは事実であ
る。

 皇国思想に溺れた明治以降の仏教の汚点が花開いた、わけで
あろう。

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