「夢十話」夏目漱石は実際に見た夢を書いていない


 「夢十話」夏目漱石は実にミステリアスな作品である。あ
る意味、多少うす気味が悪くもある。ユニークな作品である。
だが私は間違いなく断言できるのは、これは漱石の純然たる
創作である、ということだ。もちろん、多少は実際の夢にあ
ったものも中には、とつい思うが、いくら若い時代でも「会
話」がここまで具体的に数多く記憶されている、などあり得
ないと思う。基本的に夢は画像であり、「会話」はあっても
ごくわずか、明確なストーリーなどないと思う。私は中年ま
では夢はすべてカラーであって、「まるで映画」みたいだ、
と夢を見ながら思ったものだが、「音」となると基本的には
極めて僅かである。

 そこで漱石「夢十話」の第一話である。最初の部分

 第一夜

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔な瓜実顔がおをその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇くちびるの色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗のぞき込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開あけた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包た中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍そばへ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。

 こんな夢など見てはいないと思う。が、・・・・・全て漱
石の意識的な創作である。

 19世紀末のイギリスで「アーサー王物語」のリバイバルが
あったとの歴史的事実がある。ブルフィンチの『中世騎士物
語』1859やテニスンの『王の牧歌』などが、その風潮に乗っ
たものといえるようだ。で漱石のロンドン留学は1900年から
1902年まで、漱石はこの時、W・P・ケアという中世英文学
の大家の講義を聞いているようだ。

 同じ頃だが、ラファエル前派という画家の運動があり、
何人科の画家が「アーサー王伝説」をテーマとした絵を描い
ている。清純で崇高にして、悪魔的な魅力を秘めた女性とい
うのが画題だった。漱石は実際にそれらを目撃していた。

 漱石は「幻影の盾」から「草枕」に至るまでそれらの
女人像を作品に滑り込ませている。

 そこで夢十話、実際には見てもない夢を書いている。

 第一話、「輪郭の柔らかな瓜実顔」の「大きな潤ある眼」
をした女が「あおむけに寝」て、静かな声で繰り返し「もう
死にます」という。ラファエル前派の女性像が重なるという
ものだ。

 Rosseti

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