中山恒明(千葉大医学部第二外科)、ニセ死亡診断書事件、中山恒明の歴史


 248.jpg昭和39年、1964年10月7日、千葉市亥鼻町にある千葉大学
医学部には異様な雰囲気が満ちていた。この医学部の看板男
と自他ともにも許す第二外科(中山外科)の主任教授、中山恒
明博士が遂に辞表を提出するというニュースが伝わったから
である。

 「いや、ゆうべ提出したんじゃないか?」

 「そうじゃない、昨夜は中山外科の大西医局長を通じて、
口頭で辞意を表明しただけだろう」

 「ちがうよ、中山さんは直接、学長に辞表を提出したんだ
けど、滝沢医学部長がなぜ俺を通さないと怒ってムクれて、
中山さんが直接、謝罪に来るまでは正式に受け取らないと
言って学部長室で頑張っていたという話だ」

 「中山さん、出てくるかどうかな、今朝、暗いうちからもモ
ータボートを飛ばして海に出たままかえっていないと云うじゃ
ないか」

 外来患者の診察や治療を終えた若い医師たちは、医局や研究
室でヒソヒソ話していた。教授たちは白衣を背広に着替え、緊
張した顔で会議室にはいっていった。

 今年、1964年1月、突然表面化した「ニセ死亡診断書事件」
がここまで発展したのである。その内容については後述だが、
4月はじめ、この事件の関係者が警視庁から検察庁に書類送検
されてから、世間ではもう無関心になった事件だったが、それ
が9月下旬になってまた、ぶり返してきたのである。

 警視庁の取調べ中は、関係者は皆、任意出頭、身柄は拘束な
しだったが、9月29日早朝、東京地検特捜部は中山外科の前の
医局長、鋤柄秀一講師58歳を逮捕、また10月5日には山本勝美
助教授38歳、矢沢知海講師38歳の二人も逮捕したのである。
東京五輪報道に湧く新聞紙面デコのニュースを伝える一部分だ
けが暗い影を投げかけていた。

 教室の主要スタッフ3人が逮捕され、主任教授の中山恒明の
辞任も噂されていた。6日夕刻から7日正午頃まで、あれこれ流
言、憶測が飛び交い、中山恒明氏は7日午後1時半からの教授会
で5分遅れで出席し、正式に辞表を提出し、滝沢医学部長がこれ
を受け取った。

 中山恒明の歴史


 日本の外科医学界でよかれあしかれ、異色な著名な存在だっ
た中山恒明は、というより千葉大の中山外科は消え去った。
検察の取調はどうであろうが「先般来の事件で部下が逮捕され
たことに、最終責任者としてけじめを付ける」という理由で辞
職した以上は千葉大への復帰はもうない。

 中山恒明は医局員全員が厳寒に並んで見送る中を、悠然
とタバコを咥えて去っていった。学生時代から35年間、すみな
れた大学を一度も振り向こうともしなかった。

 1964年刊行された「千葉大医学部85年史」には以下のように
記されている。

 「中山恒明、千葉大学医学部教授、日本外科学会副会長、国
際外科学会会長、日本癌治療学会会長、学術会議第七部副部長
、日本内視鏡学会理事、日本胸部外科学会名誉会員、ワシント
ン大学客員教授、ドイツ外科学会評議員・・・・」

 と栄誉職が延々と並んでいる。4月には日本外科学会の会長
に就任している。千葉大医学部教授を辞任後は栄誉職もまなり
減りそうである。

 ただ千葉大医学部85年史の記述で他の医局はそれぞれが辿っ
他道を述べているが、中山外科は大部分が中山恒明個人の業績
、経歴ばかり記載している。

 東大植民地への抵抗

 中山恒明は明治43年、1910年、東京神田の内科医の家に生ま
れた。旧制新潟高校から千葉医大に進み、昭和9年、1934年に
卒業、直ちに故瀬尾貞信教授の門下に入り、外科医としてスタ
ーとした。瀬尾旧黄綬は生涯独身で通し、生活の全てを外科学
の研究と治療に注いだ変わり者であり、弟子たちへの教育も厳
しかった。一度でも失敗をすると数ヶ月は一切、声をかけてく
れなかった。このため瀬尾教室に入ろうとする新米医師はごく
少なかった。

 中山恒明はそこにないり、10年あまりの徒弟生活を送った。

 昭和16年、1941年、中山恒明は瀬尾教室の助教授に昇進した
。そのころ瀬尾教授の指導で完成したのが「動脈注射療法」で
あった。注射でリューマチなどを治療の際に、従来の静脈への
注射では薬は一旦心臓に戻り、前身に散ってしまうから治療部
位へとどく量は限られる。それを患部に直接到達の動脈に注射
すれば濃いままで到達できるというアイデアである。

 この療法は薬の乏しかった戦時下では効果はあって全国の
、また占領地の病院で採用された。だが戦後、豊富に薬が出回
ってくると廃れていった。だが戦時下では優れた研究とみなさ
れ、昭和19年、瀬尾氏に朝日賞が授与された。中山恒明が手掛
桁研究のまずは成果だった。

 昭和22年、1947年、亡くなった瀬尾教授の後をついで中玉恒
明が教授に就任した。千葉医大出としては初の臨床の教授とな
った。千葉医大は全身の千葉医専時代から東大医学部の植民地
として知られていた。主任教授は全員東大医学部出身者だった。
その植民地状態から徐々に母校から教授に鳴っていくという、い
わば民族主義の動きは全国の旧医大でもじわじわ広がった。

 この意味で中山恒明はこの意味で先達だった。東大閥の圧力、
また年功序列の圧迫、それを36歳で教授昇進は戦後のどさくさ
でも、ハンディを乗り越えた快挙でもあった。まともにやって
いては不可能だった。

 だから中山恒明は矢継ぎ早に新たな研究を繰り出した。「頸
動脈毬切除による気管支喘息の治療」、「中山式胃切除術」、
「アイソトープ使用による消化器癌早期診断」、「中山式胸部
前胃吻合術」、「食道癌における放射線療法」、「中部食道癌
三分割手術法」など。

 「学会に発表前にマスコミに流す」、「中山の云うことは
本当のことでも大ボラに聞こえる」などと陰口を叩かれながら
でも、ますます気炎を上げ続けた。

 売名家の声も多い

 中山恒明の業績は、学会から評価されるものと、まったく
デタラメとしてこき下ろされるものがある。前者は主に食道や
胃の手術の改良である。「中山式胃切除術」はその例であり、
胃がん手術では切り取った後、腸と縫い合わせる場合が多い
が、胃も腸も腹腔内でブラブラしていて縫合が破れ、腹膜炎を
起こしやすい。それを防ぐために位置を固定している膵臓に
胃を縫い付けてから腸とつなぐ。その成功率は比較的高く、広
く普及しているとされる。

 食道癌手術の後の「胸壁前胃吻合術」も中山恒明の傑作であ
り、食道の、胸腔内を通る部分に癌ができた場合、胸を切開し
て癌を切除するが、その後では食道と食道の縫合が不可能であ
り、普通、食道を胃まで引っ張って縫い合わせる。がこれでは
縫合が破れたら食物が胸腔内に出て死亡する事が多い。胃を無理
に引っ張り上げずに、胸部の外側、つまり胸の皮膚のすぐ下にト
ンネルを作って、胃と食道をつなぎ合わせる。こうすれ縫合が切
れても皮膚だけをまた切って繋げばいい。

 だが酷評される術も多い。頸動脈毬を切り取れば気管支喘息が
治るという説は戦後、中山恒明が発表し、話題をまいた、だが
事実か疑問視され、理論の裏付けもなく消えてしまった。また
アイソトープのリン32を使っての食道癌、胃がんの早期診断も
追試してもだれもうまくいかず、葬りさられた。

 頸動脈毬切除術が叩かれても「あれはまあ、人騒がせだった」
と放言した。

 「千葉大なんか小さいでしょう、なんでもオーバーに云わない
と、みんな東大に取られちゃうじゃないか」

 その心意気は良しとしても、中山恒明氏の言動が、「銀ラッパ
」とあだ名され、「ほら吹き中山」、「売名家中山」の評価を受
ける結果になったのは否めない。

 昭和28年度ころからはしきりに海外にでかけ始めた。個人で
加盟できる「国際外科学会」の支部を日本に設置したり、外国
の病院で手術をやり、多くの外国人を千葉大に招いて手術を見
学させている。

 その一方で、日本の癌学会のお歴々が唾棄しているSICにつ
いても中山氏は講師を派遣したり、調査もさせた。こうした行
状が東大閥で固める癌学会と対立を招き、1963年12月には、
日本癌学会から別れての「日本がん治療学会」を設立させた。
中山氏はその二代目の会長となった。
 
 「ここでガン学会の重鎮の吉田富三氏と対立した。吉田氏
と東大同期の病理学者、滝沢延治郎氏は今春から千葉大医学
部長に就任したのが中山氏には不幸の始まりだった。日本医
師会長の選挙で、中山氏が吉田氏と対立する武見太郎氏を応
援したことが間接的に今回の事件摘発に影響した」

 「千葉大医学部八十五年史」にはこうある

 「昭和39年に日本がん治療学会会長として千葉で学会を
開催する予定であり、昭和40年には日本外科学会会長として
東京での開催を予定している。また三年後には国際外科学会
の日本開催が予定されて、・・・・教授職は繁忙がつづくで
あろう、昭和42年3月には中山外科教室の20周年にあたり、
世界に轟く名声を上げた教室の業績が纏められるであろう」


 それがたった一枚の死亡診断書で崩壊したのである。

 千葉大学長の谷川久治氏はこう述べている

「たしかに中山くんは外科医として立派な業績を挙げて
る。独自の創意工夫による手術は人によっては神業とい
う。私としては大学の看板を失うのだから残念である。
しかし人間としての中山くんは批判の余地がある。アク
が強い、名誉欲が強い、物欲も強い、こうした欲望は頭
から否定はできないが、監督者としては困ることもある。
中山くんに出すぎた言動は慎むように注意してきたが、
結局彼は国家公務員の枠から外れた人間だった」

 ニセ死亡診断書事件以後、千葉大首脳がたしかに中山
氏に抱いてきた感情は表現しているかもしれない。さりと
てそれは学部全般の意見でもない。

 「中山くんははじめから辞職すべきだとの考えを持って
いたのは、結局、滝沢医学部長と学長の二人で特に医学部
長だったはずだ。他の教授たちは、いやしくも研究者とし
て中山氏が悪事をなしたことが立証されない限り、処分な
ど口にすべきでないと考えていた。」

 

 4月からは半年間、検察の調べは進んだ。医学部内には、
この事態に臨床と基礎の教授から七人を選び、中山問題
大作委員会も出来た「千葉大の名誉を守る:がその趣旨で
あったが、検察の調べが終わったら中山氏を査問し、進退
をすっきりしようとしていた。が査問、前に事態は急転し
た。中山外科から逮捕者続出という検察の強硬さが中山氏
の意思を挫いてしまった。だがこれは学長や医学部長の思
うままでもある。

 人柄がモトの勇み足か

 一人の著名な外科医はこうして千葉大から去った、しか
し日本の大学医学部では主任教授の退任とその個人の運命
だけにとどまらない、という風習がある。「君辱めらるれば
臣死す」という古風な意識だけではない。いわば厳しい徒弟
制度で教育された弟子たちにとっては、研究も診療も全ては
師匠まかせである。

 特に中山外科のように、中山氏の存在で名声が鳴り響くと
いう教室ではなおさらである。中山氏の辞任は助教授以下60
名の医師たちの運命も替えてしまうであろう。

 中山外科の場合、よく聞かれるのが

 ①事件真相がわからない

 ②だが中山氏の実力からしてさられるのは惜しい

 ③ただこうなったのも中山氏の人柄に起因するのではないか

 である。

 「人間は得意絶頂のときが一番危ない、だから私は中山君
に向かって《子供じゃない、少しは自重しろ》とか《こら、
銀ラッパ、黙れ!》と忠告してきた、それも彼のためを思っ
てだったが」(国立がんセンター病院長、久留勝)

 「中山君はフランクで親切だがそれがそのまま欠点になっ
ている。思ったことはすぐ口に出すし、相手を考えてものを
云わない、これは傲慢とみなされる、やはり学者は地味、謙
虚がいいよ」(和歌山県立医大教授、竹林弘)

 「中山君はハッタリが強いというが、学問の世界じゃ通用
しない。自信家だが、これは性格だから仕方ガない。j人には
ハッタリと見られやすい」(東京女子医大教授、榊原)

 同僚

 「大木の下に下草育たず、彼は後継者を育てようとしなかっ
た。それが原因じゃないかな、その意味では中山外科は潰され
たんじゃなく、彼が潰したといえる」

 中山外科に入院中の高見順氏

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 「僕らは中山先生を頼って入院したんですよ、中山先生の
執刀で手術していただいた以上は、完全治癒までいてほしか
った。患者はそう思ってます。第三国人の財産争いに巻き込
まれて辞めさせられたんじゃ、ひどいですよ。辞表を受け取っ
退学部長もおかしい、中山先生が辞職するどのような事情が
あっても中山先生の患者が退院するまでは在職させるべきで
しょう。主任教授だけ責任をとって医学部帳はなぜ無風でい
らえれるんでしょうか」

 【千葉大医学部ニセ死亡診断書事件】

 食道癌手術で中山外科に入院していた台湾人の林保郷氏
当時45歳が、昭和37年11月10日午前零時52分、千葉大病院
で死亡したことに始まる。林さんは慶応大医学部出身、中山
氏の実弟と同級生だった。戦後はキャバレー、喫茶など手広
く経営し、その資産は数億円以上という。

 この遺産を巡って問題が起きた、林さんは18年間、日本人
の内妻、太田米子さんと住み、二人の子供も生まれている。
死ぬまで婚姻届けも認知もなかった。このため米子さんの実
兄、太田実氏は保郷氏の実弟林長江氏砥石に頼んで死亡診断
書の死亡時刻を丸2日遅らせようとした。しかし長江氏はそ
んな相談はしらないという。

 ・・・・

 遺産相続に絡んで、長江氏が米子さんと実氏を警視庁の告
訴した。捜査の結果、太田側の依頼でニセの死亡診断書が書
書かれた事実が判明し、中山恒明氏は警視庁の取り調べを受
けた。中山氏他5名が、虚偽氏文書作成で4月7日書類送検
された。

この記事へのコメント

纐纈 晃
2025年11月10日 02:13
わたしの祖父が中山先生の診察を受けました。まだ新幹線のない昭和30年代、関西から祖父に父と伯父が付き添って上京しました。術後に父がお礼を持って中山先生の自宅に赴きました。プールがある豪邸だったそうです。父はもういない。母(88)は今も健在です。わたしは当時2才くらいで記憶はおぼろげでしたが祖父の遺体が帰ってきたとき痩せて全身が黄疸で黄色だったのは記憶してます。当時の医療者はベストを尽くしたと思う

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