原節子と藤本真澄、・・・・原節子と三人の男

本があるがその中にある「原節子をめぐる三人の男」という
一章がある。この本の中で面白いのは若山セツ子、本田寿賀
であり、「「原節子をめぐる三人の男」は正直、本に収録す
るほどの内容、というか切り込みがない。それも根本は原節
子という、退屈なキャラクターが影響しているのかもしれな
い。
で「原節子をめぐる三人の男」小津安二郎、熊谷久虎、そ
して東宝系列の名プロデューサー、藤本真澄である。小津安
二郎についてはいまさら述べるも退屈だったとは思う。熊谷
はそもそも原節子の義兄にして映画監督である。終戦直後、
九州独立運動を起こしたという小説の題材にもなった珍事が
ある。三人目はこれも有名な藤本真澄、である。でどうした
?熊谷久虎は原節子の生活全般に絶対的影響を持っていたと
いう、右翼の教祖できな強引さがあったというが。
原節子は日活から映画デビューしたはずだ。今でこそ原節
子は空前の美女、みたいに伝説化されているが、熊谷に勧め
られ、日活の審査を受けたが、「色がくろい、横顔はまあま
あいいが、正面からはちょっと」とあまり芳しい評価は得ら
れなかったが映画界には入った。
日活は日本最古の本当の映画会社である、東宝というと
現在の東宝を考えてはいけない、小林一三系列の戦前はむ
しとやや弱体の映画会社だった。そこにいた藤本真澄であ
る。1936年度、昭和11年に日独合作映画「新しき土」の主
演女優となり、欧州からアメリカまで見て回り、帰国後に、
東宝専属となった。そこから終戦まで東宝で35本の映画に
主演するが、あの演技力だから人気は乏しかった。昭和10
年代前半の頃、女優ブロマイドの売上でいうと一位は高杉
早苗(猿翁の母親)、続いて高峰三枝子、桑野通子、轟夕
起子、田中絹代、入江たか子、山田五十鈴、でなんとか
霧立のぼる、山路ふみ子らとそれに続く存在だった。
原節子に田中絹代や大竹しのぶ、左幸子、望月夕子、
思いついたままだが、本当に熱演、名演技はおよそも求め
られず、記憶にもない。島津保次郎「光と影」昭和15年で
懇切な演技指導でなんとかサマにはなってきた。ここで
藤本真澄が登場となる。今は東宝だが昭和10年初期はま
だ普通はPLCと称していた。そのPLCに慶応から明治製菓
を経て入った藤本真澄、「光と影」で製作アシスタント
を務めた。続けて島津監督「女の街」、「二人の世界」
、「兄の花嫁」等の原節子主演映画に助監督などで関わっ
た。戦後は東宝副社長にまでなった藤本だが。小津安二郎
も生涯独身だったが藤本真澄も独身だった、別に独身を通
す理由もなかったはずだが。戦後、原節子との結婚を噂さ
れたこともあった、藤本の母親が原節子に直接、その気が
あるかどうか確かめにいったと藤本自身懐古して、まんざ
らでもないという本音が見え隠れする。無論、原節子にそ
そ気もなかったが。戦前、「光と影」で原節子を見て意識
し始めたのは事実らしい。島津保次郎の原節子の可愛がり
ようは大変なものだった、と半ば嫉妬を込めて述べている。
東宝は、藤本の考えで原節子の引退後も「専属料」を送
りつづけていたという。少なくない額でこれで原節子は心
おきなく隠遁できたわけだが。藤本が昭和54年、1979年に
死去してからも東宝は原節子に「専属料」を送りつづけて
いたがその後、原節子が辞退したという。
だいたい戦後、林芙美子原作「めし」の主演に藤本が原
を主演に据えようとしたのに、林芙美子がイメージが違う、
と強硬に反対し続け、藤本と押し問答を繰り返していらた
芙美子が急死、原節子主演を実現させた。藤本の葬儀に原
節子が本名、会田昌枝で献花しているから藤本の好意は感
じていたのだろう。
男から見たら原節子はさして魅力を感じさせる女でもない
とは思うが。実物は画像と違い、非常のコンパクトでまと
まっていたという。
いつか「週刊文春」に鎌倉の寺院で隠遁の原節子が隠し撮
利された写真が載った。ジャージーを着て、髪はざんばらの
おかっぱ、小太りでそこらのおばさん風で見る影はなかった。
その後所有土地の売却で高額納税者で新聞に名前が出たこ
ともあった。
昔、私は「松竹友の会」なるビデオ愛好団体に所属してい
たが、鎌倉旅行の勧誘がたた「小津安二郎の墓参りをする原
節子に会えるかもしれませんよ」あのジャージーの女性なら
会わないほうが確かに正解だっただろう。