ルーツに非礼の限りの三島由紀夫、その「慰霊碑」がなぜ旧本籍地、志方町に「精肉業者」の資金で建立?地元は慰霊碑を黙殺
確かに三島由紀夫、平岡公威は自らのルーツである兵庫県
の志方町、に生涯、泥を塗り続けた。西日本を忌み嫌ったと
も言えるが、特に三島由紀夫が学習院に入れた理由たる貧農
出の祖父の官僚としての栄達、その祖父の出身地、志方町に
を隠蔽、単に隠蔽ではなく泥を塗り続けた、といって何の過言
でもない。何も親や祖父が華族であったから学習院に入れたわ
けでもない、戦前の学習院も「栄達特例」があって官僚や政治
家、経済人で庶民出身でも栄達を遂げたら子弟を学習院に入れ
ることが出来たのである。三島由紀夫の世間への虚像はこの
「学習院」に発している。もし普通の学校に通っていたら、全
く様相は異なったはずだ。ただ開成中学を不合格になった、こ
れが運命を決めた、だが結果としての「学習院」はその後に
人生のあり方を決めてしまった。
三島由紀夫の乱入、割腹が1970年である。志方町に「三島由
紀夫先生」の慰霊碑ができたのは1986年、昭和61年である。だ
が意外にこの事実は広まっていない、三島本人の自らを自らた
らしめた実質的唯一の要因の祖父、平岡定太郎の故郷の志方町
に非礼では済まされない冷酷敵意に満ちた態度で一貫、という
のか隠蔽の極みであった。ただ徴兵忌避に利用したくらいだっ
た。
1972年2月21日、志方町の八幡神社の境内で「三島由紀夫を
偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。志方町在住の人ばかりである。
神主の祝詞で始まり、玉串奉賀がなされたが、最後まで怪訝な
表情を崩さない参加者が多かった。推進は地元の「生長の家」
の会員であった。彼らは三島由紀夫こと平岡公威のルーツの家
に古くから出入りし、父親の平岡梓とも親しい地元の好田光伊
(志方町農協理事)や文学愛好グループなどにも参加を呼びか
けた、また三島と一緒に徴兵検査を受けた人たちにも参加を呼
びあっけたが、多くは参加しなかった。式後の会食もさっぱり
盛り上がらない、徴兵検査で言葉を交わした船江不二男もそこ
にいた。だが船江以外、三島と言葉モ交わしていない。地元を
無視、隠蔽に徹した三島由紀夫に好感情はまずもてなかった。
むしろ慰霊祭も反発を呼んだ、「一度でも本家の残る横山部落
の平岡宅を訪問していたらもっと地方反応が出ただろう。とい
う思いの人が多かった、
事実、解散後「自分の故郷も忘れて顧みず、一度も先祖の
墓参りもしないような人間がロクな死に方をするはずはない」
文学誌「農民文学」で三島の自決後すぐ同人の船江不二男
が仲野羞々子という「ペンネーム」でこのような寄稿を行った。
「世間では三島を公家だとか、そんな生まれのものと思い込み、
本人もあたかもそのように振る舞った。間違いはそこから始まっ
たのだ。平岡家分家三代目の彼は自称貴族だが、初代の祖父、栄
達の祖父は貧農からの成り上がりもので御影師範から早稲田の人
間だ。それをとことん知り尽くしている三島由紀夫は、徹底して
故郷を隠し通し、優雅な家系を偽装し続けた。胸の底にうごめく
貧農コンプレックスを貴族、またある場合は武家の偽装で生きた
のだ」
三島由紀夫は事実、祖父・平岡定太郎やその家系、志方町につ
て触れることはなく、無視し続けた。農民農家をあざ笑うような
態度に徹した。「汚いものは嫌いだ」
そのような地元無視、忘恩の徒の三島由紀夫の慰霊碑が、死後、
16年目に建立された。兵庫県知事、の揮毫が彫られている。その
資金は地元の精肉業者、言わば屠殺業者が出している。地元は
この慰霊碑を徹底的に黙殺し、加古川市観光課もこの慰霊碑への
問い合わせには一切応じないし、紹介もしない。板坂剛氏が取材
したさいは、警察官も露骨な不快感を示したという。「そんなも
んは知らん」と吐き捨てるようだったという。
なぜ屠殺、精肉業者の資金で三島由紀夫の「慰霊碑」が、である。
平岡家のルーツに詳細な報告を載せたのは梶山季之主宰の月刊
「噂」1972年8月号である、今なおこれを超える「ルーツ」ものは
出ていない。執筆者はよくわからない、梶山季之は多忙だから、取
材は別人だろう。
兵庫県はいうならば西日本の典型で被差別部落はトップクラスに
多い、地元でも精肉、屠殺業への感情は表向き誰しも沈黙する。無
論、言われない差別には違いないが、、
雑誌「噂」の取材では檀那寺の真福寺、岡超三住職、に依頼を行
ったようだ。岡住職は過去帳から平岡家がそれまで250年程続いてい
る家と判明した。元禄時代は「孫左衛門」、利兵衛(寛政4年没)
二代目利兵衛、文化5年没、三代目利兵衛、天保5年没、以後初めて
平岡という姓が出てくる。平岡太左衛門、平岡太吉、過去帳には「
番人」、「水番」、「非人の子」などという差別汚名が付いていた
が初代にはそんな汚名は一切ない。
結論として岡住職は平岡家を「ごく普通の百姓です」と断言して
いる。
繰り返せば、過去帳については梶山季之主宰、雑誌「噂」記載そ
のままである。
平岡太吉は幼い頃、鶴を弓で殺し、親子もろとも所払いになったて
西神吉村から志方町の横山部落に移住した。だが皮肉にも平岡家は、
太吉の代から興隆を始めたのである。太吉は平岡定太郎の父親であり、
平岡梓の祖父である。三島の曾祖父である。ただ幼い子が弓で鶴を
射殺など、今も昔もほぼあり得ない話だ、それをやった、というの
は何か素因があったから、と思われてしまうのである。幼い子が鶴を
射殺し、解体し、捌いたとしら。
なぜ三島由紀夫がここまで地元、ルーツを隠し通したのか?単に
農民なら百姓というくらい、日本人は原則みな農民だったのだ。武
士も農民であった。兵農分離後、変わっただけだ。不思議な点は、
まさに、ここだ。通常、「貧農の出」を徹底して隠蔽しようとした。
確かに農民でも大地主、豪農の出、太宰治のようなケースもある。
対して貧農だから、嫉妬の感情で三島由紀夫は太宰治を憎んだ。だ
が日本人は基本、貧農であった、別に恥じるものではない。だが、
三島由紀夫の郷里隠蔽、無視は度を越していた。このような例は他
にまず見られない。「俺は汚いものが嫌いだ」と下層、下積みの人
々を徹底して侮蔑し、学習院を利用し、高貴な血を装い続けたその
裏にあるもの、はである。やれ、「憂国」、「武士道」、「舞踏会」
などと連発すれば隠蔽されると考えた、何かがあった、と推測する
しかあるまい。
屠殺、精肉業者の資金で三島由紀夫慰霊碑に地元はいうに言えない
、胡散臭いものを感じて完全無視なのだろう。臭いものに蓋。言わぬ
が花、ということである。
参考文献:月刊「噂」、昭和48年8月号
板坂剛「真説 三島由紀夫」 夏目書房
この記事へのコメント
51年では無いですか?慰霊碑周辺に記載はなく、こちらのブログを拝読し、S51建立と言う情報も聴き、揮毫の坂井時忠知事の在籍期間を調査しますとS61には既に退官されています。
S61情報はどちらでお知りになりましたか?