田宮虎彦・千代『愛のかたみ』1957,純愛往復書簡集、慟哭だが批判や悪い噂も


 愛のかたみ  新書カバ006.jpg1956年11月、田宮虎彦は妻の千代に先立たれ、途方に暮れ
た。その往復書簡集は光文社から刊行され、ベストセラーに
なった。事後的に批判を、平野謙から激しい批判を受けた、そ
れはさらに長く尾を引き、1980年7月、小田切秀雄が平野謙か
ら聞いた話として「あのベストセラーの印税の金で田宮虎彦は
女と遊んでいた」と講演会で暴露、実は痛手となった『愛のか
たみ』であった。たしかに田宮虎彦の文学の流れからして、妻
の死という痛恨の悲しみにせよ、やや文学の道を踏み外した、
と言われても仕方がない面はあると思う。掛け値なしの名作が
多いだけに、悲しみに溺れた、にせよ、である、1988年の悲劇
の最期を考えると気の毒な気はする。愛妻をなくした悲しみは
筆舌に尽くせない、だが虎彦はまだ若かった、そこを考えてあ
げないと。

 それはさておき、ベストセラーになったのはそれだけの理由
がある。この本は田宮虎彦が千代さんと初めて出会った日のこ
と、やがてふたりとも結核に罹患していて、医者の許可を得て
やっとのことで結婚生活に入って「千代とは溶け合い、離れて
いても二人は一つのようになっていた」

 幸福な18年の明け暮れノのあと、ガンで40歳という若さで千
代さんは亡くなった。二児を残して。「千代の死の後にも」、
「妻を慕う」、「愛のいのち」、「時間」、と「私たちの愛の
かたみに」という題のもと、二人が結ばれる前後からガン性の
神経痛に悩まされ、注射で苦痛に耐え、なお立ち働いている中
でしたためた最後の手紙を数十通収録している。

 「千代の顔には翳があった。私が千代を好きになったのは、
その翳ゆえであった。同時に、私の心に笑いを芽吹かせた。私
が千代を尊敬し、愛し、死なれてしまった今、生きてゆく希望
を失ったと思うのは、千代が私にの心をゆさぶる不思議さの故
である」、

 「私は千代の死の間際、私をみていった千代の『幸福だった
わ』という言葉を思い出すと、私の非力が、なお幸福にしてや
ることが出来なかった大きな空白が心にのしかかる」

 「千代、生き返ってくれ」の中の一節だが、どうも平野謙が
なんとも疑念を感じた、のはここらだろうかとも思える。だが
言葉に偽りはないと信じる。

 「千代の手紙には千代の赤い唇のあとが残っている。それを
千代から受け取り、封を切るのももどかしく読んだ時の心のと
きめきが、今も、その時のまま、私の胸に・・・・・」

 まさに慟哭である、だが意外なスキャダルになった。自殺の
遠因になったのでは、と思えるのだが。

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