大江健三郎『われらの時代』1959,大江健三郎、稀代の失敗作、轟々たる批判も当然だった

後日のもので、1959年当時、大江健三郎は『死者の奢り』
、『飼育』、『芽むしり仔撃ち』などの作品でそれなりに高
い評価は獲得していたが、まだまだ若手作家であり、石原慎
太郎、開高健らと並ぶ存在で、むしろ石原慎太郎のほうが多
少、格上?というイメージであった。開高健は『日本三文オ
ペラ』を完成したタイミング、石原慎太郎はブラジル旅行か
らか帰って、創作集『男の掟』、実はこの三人で大江健三郎
が一番若いのである。で、大江健三郎は何を?という期待の
高まったときに長編書き下ろし『われらの時代』世代交代を
主張するようでいタイトルは文句ない、だが、大失望と批判
をまねき、さらに反感さえ呼んでしまった。
1935年生まれの大江健三郎だから1959年、まだ24歳、執
筆発表はまだ23才だ。だったら暴走もわからぬではないが。
怒りと抵抗、自分たちの世代の主張を表現したい、若気の
いたり、それは仕方がない、自分が23歳のときのことを考え
たらいい。
で内容はと言えば
東大で仏文を専攻の南靖男、もう10年も外人相手の娼婦と
生活しているという。つまり学生が年増の娼婦、頼子のヒモ
みたいになっている。10歳以上も年上の頼子は年増の深情け
でしっかり靖男を包み込んでいる、さらに「わたしの天使」な
どといって靖男を愛玩しているかのようだ。靖男はそれをいつ
しか耐え難いものと感じ、頼子からの脱出で自由な生活を取り
戻そうとしている。
そもそもこの小説の冒頭から何やら閨房の記述で始まるよう
だ。
「快楽の動作を続けながら形而上学について考えることと、
精神の機能に集中すること。それは決して下等な楽しみでは
ないだろう。いくぶん滑稽であるが、それは大人向きのやりか
たというものだろう。南安男は、かれの若わかしい筋肉となめ
らかな皮膚のすべてを快楽のあぶらにじっとりひたしながら、
・・・・・汗まみれの中年女の体を愛撫しながら孤独な思考に
頭をゆだねていた」
という、正直、あきれる記述だが、このような閨房の記述、
女性の性器についての被害妄想的な独白が終わりまで間断なく
つづくのだから、コレは相当ひどい、大批判が湧いたのも宜
なるかなではある。頼子からの脱出尾は頼子の性器からの脱
出であるという、なんとも不埒千万である。
さらに彼女性器きからの脱出とは湿潤なる日本の風土から
の脱出を意味しているようで、それは朝鮮戦争以後の、ぬる
まゆ的な安定の中の日本、非行動的な日本への嫌悪なのだ。
『俺たちは戦って死ぬことのできる英雄的な時代、若い人間
の時代に生きているのではないのだ」微温的な時代は若い男
を腐らせて、頼子の性の虜になっている靖男を含め、精神的
なインポになっているというのだ。
他方でアジアアラブ世界では民族運動が高揚している。「
アジア」といえば心も高まるはずが「日本は心をふるわせる
ヨウナアジアではない」アジアの青年のようなエネルギーも
ない、理想もない、目標もない。青年たちは閉ざされたエネ
ルギーを性で発散というていたらくである。
靖男の弟は滋、なんだか伊藤整が自分の息子の名前に最初
の女の名前を流用したみたいだが、滋、しげる、という弟を
含む三人の十代青年は「不幸な若者たち」というバンドを作
って自分たちのエネルギーを持て余している。行動目標もな
い靖男に対し、滋は大型トラック所有という目標がある。彼
らはいつも「こいつは勃起させるぞ」という言葉を投げあっ
ているが、それは彼らを興奮させるという表現なのだ。彼ら
は天皇の車に、ただ「勃起させる」ために爆弾を投げようと
して失敗する。三人のリーダー格の高を作者は、朝鮮動乱に
従軍経験のある人物を当ジョスあせている、のは大江健三郎
の国際的視野の意欲なのだろうか、だったはずだ。
青年の盲目的エネルギーを明確な目標を与えない、進歩的
大人たち、そのようなエネルギーを腐らせてしまう保守的な
大人たち、保守と革新、両方への不満をぶちまける風情だ。
その心の隙間をファッショが侵食する、「日本国民は独裁者
をもとめている」と壇上で叫ぶ男を登場させるところは、あま
りにもお粗末、稚拙で、「不幸な若者たち」はその車に乗って
「傭われ右翼に」に。あまりに安易で陳腐を極めるぞ。
とよめば落胆の流れである。この秀才学生はフランスの保守
的な書店の計画の「フランス文化と日本文化の相互関係」と
いうテーマの論文に応募、入選し、フランス留学へ。これは女
の性器からの脱出の絶好のチャンスだ、頼子はそれを知って引
木とメル画、靖男は断固出発するという、・・・・・あれこれ
あって結局、フランス留学は取りやめる
「おれにとって唯一の行動は自殺だ、かれは跳びこまない、
彼はおびえて欄干にしがみついてしまう、偏在する自殺の機会
に見張られながら、おれたちは生きてゆくのだ。これがおれた
ちの時代だ」
コレがこの小説の結論である。
だから世代交代主張の作品、世代論の小説なのだとは思うが、
過去の権威を倒し、変革をもたらそうと時代にいつも若さだけ
が主張され、若さ自体が価値を持つ?かのようにみなされる。
『飼育』や『芽むしり仔撃ち』で、おのずから見えていた行
動性が「われらの時代』では観念的な焦りとなって、支離滅裂
になってしまっている、支離滅裂な表現に終始している。新し
い創造的エネルギーを読者に訴える作品のはずが、規制イデオ
ロギーを安易に持ち込んで想像性が欠如している。石原のあの
障子を破るの猿真似になてちるようだ。幸い、その後の大江健
三郎は真の作家道に進んでくれたからいいが、・・・・・・。
この作品は悪いがパスした方がいいだろう。
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