人間の死は本質的に全て孤独死、孤独に見えない死は仮相

ようだ。「孤独死は怖い」、「だから未婚はだめ」、さらに
「子供がいないとだめ」んどとかお節介めいた考えが多いが、
結局、結婚したからと云って一人になるから同じことである。
子供がいても、まず子供は出ていく、別居である。病院や
介護施設、老人ホームに入ろうと実は「死ぬことを待ってい
る」かのような施設、病院の対応であり、警察が入る入らな
いの違いはあっても、実質放置されての死である。暖かく
病院や施設が看取ってくれることはない、「ああ、来ていた
ら呼吸をしてませんでした」である、うちの「母親」などそ
うだった、兄が連れて行ったとき、最初に医者が「看取りま
すよ」ある程度水揚げができて、介護に面倒になったら抹消
静脈からの点滴栄養で栄養失調に導くだけである。冷酷なも
のだ。
しかし、それらは何ら本質的なことではない、人の死はすべ
て孤独死、なのである。大衆の面前で安倍晋三元首相が狙撃
されて死ぬのも立派な孤独死である、この世には有名を馳せ、
栄達を遂げた人も庶民と同じ程度の年齢で当然死ぬ、死ぬこと
は一人である、看取られても、誰も一緒に死んでくれない、心
中したって死ぬことは一人である。
誰も一緒に死んでくれない、死ぬとは究極の孤独の所業であ
ある。人に囲まれ、チヤホヤされて交際、交友が多いなど、い
わば人の偽りの姿である。人の真の姿は孤独である、それが
全て最後に現れる、顕在化である。
行政的な孤独死は何ら本質ではないが、それとて結婚しても
同じことだし子供がいてもいなくても同じである。
死とは人は孤独であるという本質が明確に噴出されることで
もある、大勢に囲まれて死のうが、大衆の面前で狙撃されよう
が、それは孤独死である。死ぬこと自体が孤独への帰着だから
である。孤独でなさそうに見える人間はまったく化装に踊って
いるに過ぎない。
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