「河野一郎邸、焼き討ち事件」1963年7月15日の朝、今に残る「河野はずし」の流れ
河野一郎建設大臣の邸宅が『憂国同志会』と名乗る右翼によ
って放火、焼き討ちされた。
7月15日朝、あと10分で午前7時というときである。東海道線
平塚駅から南へ400m、この海岸通の一角にある河野一郎建設相
の私邸では、書生の井出守さん(28歳)が庭の掃除をしていた。
その時、一台の黒塗りの乗用車が滑り込んできた。降り立った
のは若い二人連れの男だった。一人は黒のダブルの背広を着込ん
でいて年齢は20代後半のように見えた。もう一人は同年齢くらい
で緑色の背広であった。二人は玄関のブザーを鳴らした。井出さ
んが対応に出ると、黒ダブルの男がいきなり、小型のピストルを
突きつけ、土足で応接間に上がり込んできた。
「今、この家に何人いる?」
男は低い声で尋ねた、危険を感じた井出さんは咄嗟に奥の寝
室で寝ている河野一郎夫人、照子さんをカウントせず「三人だ」
と
「先生はいるか?」
「今、京都に出張している」
「間違いないか?」
男は念を押すようにいい、一通の書面を手渡した。そしてこう
云った。
「それなら、家にいるものは全員集まってもらおう」
夫人の他、秘書の紫藤研一さん(30歳)が2階に、お手伝いの
武井婦美子さん(29歳)が茶の間にいた。
「紫藤さん、ちょっと」と井出さんが二階に声をかけると、紫
藤さんはトントンと二階から織りてきた。これまた黒のダブルの
男にピストルを突きつけられた。「お静かに願います」
一瞬、紫藤さんは息を呑んだが、すぐに心を落ち着けて問い
返した。
「私はこの家を預かっている者で、先生の秘書です。あなた方
は誰ですか?」
男はこれに答えず、ピストルを右手に持ち、弾倉から実弾を一
発、抜き取ってこういった。
「弾丸はあと9発入っています。私は人に危害を加えるつもり
はありません」
口ぶりは慇懃で。かえって不気味だった。
やがて武井さんもその場に呼ばれ、三人は釘付けにされたまま、
動けなかった。
紫藤さんは改めて男に用向きを尋ねたが、黒ダブルの男は「
書面をもう一人の人に渡しています」とぶっきらぼうに云う。
次に、緑色の背広の男をを促して車から石油缶2缶を運ばせた。
石油缶の口はすでに開けられていた。
二人は石油を玄関と茶の間にぶちまけると素早くマッチで火
を点けた。たちまち炎が床をはって黒煙が舞い上がった。二人
は外に飛び出した。
あまりのことに、紫藤秘書は棒立ちになっていたが。二人が
逃げ去るのを見て即座に消火にあたろうとしたが、もう手遅れ
で火は一気に窓ガラスまで広がっていた。
井出さんは奥に駆け込んですでに騒ぎに気づいていた照子夫
人を誘導し、裏口から避難した。そして夫人は燃え盛る家をあ
とに、じとまず近くにある河野一郎建設相の弟で参議院議員の
河野謙三氏宅に向かった。消防車が来たのは黒い乗用車が消え
去ってしばらくしてであった。
延べ面積250㎡、総檜造り、平塚一とされた豪邸は瞬く間に
焼け落ちた
河野邸の隣に住んで、この火災を外部では第一発見者だった
市川ふじさん(76歳)はこうのべている、
「二階で寝ていると。、突然、ガラスを割るようなすごい音
が、つづいて聞こえて起き上がった窓から見ると、黒い煙がモ
クモク、それで大声で、河野さんの家が火事です、と叫んで家
族にしらせました。すぐ織りて、河野さんの家の玄関まで行く
と、もう火の海でした」
敷地は3500㎡、門から石畳の坂道が続き、左に曲がって玄関
に続いている。庭園は数年係で土を盛って、樹木も集め、コケ
も選んで、という立派なものだった。前の邸宅を壊して、新し
く建てたもので、本屋はこの年の3月に完成、当時は茶室の工
事が進んでいた。近く落成式をやろうという新築だった、木造
で火の回りは早く、7時半には鎮火した。
この日、河野一郎建設相は名神高速道路開通式に出席のため
、関西に出向いていて不在だった。河野一郎は前夜から宿泊の
京都の竹中旅館でこの事件を電話で聞いた。午前7時50分頃で
あった。朝食の最中で「ほう、ひどいことをするものだ」と簡
単に電話を切った河野一郎氏だったが、その後の新聞社からの
問い合わせに「今日は名神高速開通の喜びの日だ、放火事件は
プライベートだから、この問題へのコメントは控えたい」と述
べた。
開通式は12時半、京都府立体育館で行われた、その記者会見
で河野一郎建設相に質問が新聞記者から飛んだ
「無茶なことをすると思う、原因はわからない。済んだこと
は仕方がない」
記者:政治的中傷の怪文書が出回っているようですが?
「この二ヶ月ほど、怪文書が出回って、選挙区の神奈川県で
もバラまかれ、悪質で執念深いやりかただった。でもそれが影
響を残すものとは思わない。ぼくも新聞記者をやっていたから、
真実が残ると思っている。デタラメは消えてしまうものだ。で
も今度のような事件はいけない、三等国だよ、これじゃ。僕は
気にしないが、もし個人や家族に犠牲が出ると初志貫徹が出来
なくあんるかもしれない。(しんみりと)実は平塚の家は昭和
7年に代議士に初当選のとき方買っているんだ。30年経ったし、
区画整理もあるから、壊して牧場にもっていた。やっと新築し
たら焼かれたのは残念といえば残念だ」と寂しげな表情を見せた
という。
多少は寂しげな顔で伊丹空港で10人ほどの警官に見送られ、
乗った機内でへそくり談義などで記者を笑わせた。
「正月にあの家で盗難にあって、玄人の泥棒にね、品物には
手を付けず金だけ持ち去った。『どれくらいヘソクリを盗られ
たんだ?50万くらいか?』ときくと『もうちょっとある』家内
もヘソクリがうまいもんだ」
羽田で森清、中曽根康弘氏らに囲まれると即、厳しい表情に。
狸穴の建設省に向かった。早速政局の打ち合わせ、政治家として
は政治で勝負ということである。放火はプライベートと割り切
っていた。
犯人は?文書のみであるからすぐには判明しなかった。
和紙に自由民主党に告ぐ!と題して以下の文章が
速時現在の混乱した権力争い、
派閥闘争の粛正に着手せよ
見よ日本の今日的立場
未だ権力者の小憩淫楽の許される時に非ず
然るに何ら国情を省みず
十八年の泰平に一億国民のあるのを忘れ
小憩淫楽を極め
単に個人の権力を追い左翼陣営の進出を許し
隣国の無法に対しても無策に光陰を空す
以下略
全日本愛国者団体会議
憂国同志会
自由民主党
河野一郎殿
捜査本部がこの憂国同志会の会長、野村秋介の写真を井出
さんらに見せると「犯人の一人に非常に似ている」と答えた。
憂国同志会は公安の調べでは、右翼団体の一つで、事務所を
横浜市南区八幡町72の造船鉄工所、荻野組の事務所に置き、
「真に国を憂い、真に道を志す者の集まり」という綱領で10
人ほど団員がいる。みな青年だという。
会長の野村秋介は神奈川大学を二年で中退し、事件当時28歳
、最初は右翼団体の「天照義団」の機関紙「天照」に寄稿して
いたが、昭和32年頃、編集を手伝い始め、昭和36年の12月22日
にゆ憂国同志会を結成した。
野村は全日本愛国者団体会議の常任理事も兼ねていて、憂国
同志会顧問には大日本護国党の副会長、保坂栄、天照義団総裁
の山下幸弘が名前をつられねていた。
山下によると「野村くんは県知事選挙後、河野さんの選挙の
やり方を強く批判していたとは聞いたことはある」という。
野村の妻、22歳の話では
「会の仕事でよく家を開けますから、私は何も知りませんが
、自民党の内紛や派閥争いには憤激していました」という。
荻野組の責任者、荻野初子さん、39歳によると、野村秋介は
初子さんの亡くなった夫に、荻野音次郎に可愛がられていて、
昭和30年当時、一年ほど荻野宅に引き取られて働いていたが、
非常に乱暴者で、それまでに傷害、詐欺、横領、銃刀法不法所持
などで七回の逮捕歴があり、昭和34年1月に網走刑務所で二年間
、服役していたという。
ともかく今に至る河野外し、は当時からであり、池田勇人は
首相就任後、途端に低姿勢となり、左翼との対決を求める右翼
の怒りを買ったし、その池田内閣の実力者は河野建設相であり、
日ソ交渉以来、保守の中の「容共派」とされて右翼の攻撃の対
象となっていた。右翼の反河野はかなり明確だったようだ。
さらに右翼を憤激させたのは後河野一郎が昭和37年春、那須
野原、で56000㎡の土地を入手した。那須御用邸隣接の原野で
ある。ここで牧場経営を始めたのは恵比寿商事、社長は河野夫
人の照子さん、だが法を無視しての豪勢な別荘が建設される、
風致特別地区の森林を焼き払う、「美し那須を愛する天皇陛下
を怒らせた」と右翼は激高したのである。
とこの辞典で「諸般の事情」で河野一郎が右翼柄襲撃される
可能性は高待っていたのは事実であった。実際に新築邸宅への
放火事件という形になった。
今に至る河野系列排除の始まりだろうか。
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