井上靖『楼蘭』は文学作品か?桜蘭への過剰な思い入れが現実離れの美化、詩情につながった
井上靖の西域もの、は著名な作品が多いが長編の『敦煌』
とならぶ高い評価は『楼蘭』である。1959年、講談社から
短編集として『楼蘭』を刊行、1950年代の作品群はまこと
に超人的だ。現代ものから中国もの、西域、自伝もの、戦国
もの、それぞれで恐るべき多作である。その中から1959年の
『楼蘭」ある意味、批判を隔絶する名作として扱われる、だ
がこれを小説とみなすことはいかにその定義を広義に考えて
もそのジャンルにはいらないだろう。歴史的エッセイ、さら
に一種の散文詩、とも思われる。だから人は遠く遠景にさり、
彷徨える楼蘭が主人公、その透徹した歴史館、文章が素晴ら
しい、というのが定評である。
ともかく改めて『楼蘭』を読むと、桜蘭とはタクラマカン
砂漠の中のロブ湖のほとりにあった小国だという。西域のど
真ん中、不毛の地のように見える。その「楼蘭」国は匈奴ろ
漢に挟まれ、独立の維持は至難を極め、情勢に従って絶えず、
場所を移動し、やがて父祖伝来の土地を追われ、歴史から消
えていったという。
まず桜蘭を脅かしたものは政治的なものより、その自然環
境野の厳しさ、不毛さあであった。1500年くらいの周期で、
砂漠の強風が河流と湖の所在を振り子のように変え、それで
この城郭国家が砂の下に埋もれたと云うのである。
全編を通じて会話はなく、ただ歴史的、自然環境の記述に
終始している。井上靖はまだ西域に実際、出向いたことはな
く書籍での知識によるのみだったはずだが、その好学の成果
は十分出ている。残忍と悲哀、自然の織りなす運命、それら
の要素が殺伐たる砂漠の光景であるていどの絵巻をなしてい
る。
文章は過剰な修飾もなく、その文調に作者の異常な思い入
れが散文詩「北国」のあの詩情そのままにあふれている。そ
れが端的に云えば、何らさしたる内実もない桜蘭の過剰な美
化が作者の内面の詩情に火をつけている、という印象を受け
る。要は思入れが強すぎるのである。「楼蘭はあなたが思う
ほどのものじゃないですよ」が通じないと思える。
ただ『敦煌』に見られれる極度のフィクションの要素が、実
は『楼蘭』にも見られ、王妃の自殺、発掘された棺のくだりは
思い入れの過剰さが強く出すぎている。国家興亡という人間的
要素と自然的要素の交錯で何か作品の純度を低下させているの
は否めない。
この記事へのコメント