人生という玉葱といかに付き合うか


 tamanegi02.jpg2019年5月22日だった、に再出発したブログ『つぶやき館』
だが今日で、4352回となった。前の『つぶやき館』の回数は
多分、100回以上は超えている。ペースは前のブログより遥か
に早いが、これは当然である。若い!時代なら悠長で良かった
ことも、これくらいの年齢になれば急がないと何も出来ないわ
けである。それにしても無名の市井の民なのだから10000回で
、まずデビューくらいに考えなければならないわずか5000回も
書いていない現状では、何をいう資格もない。

 母の一周忌は過ぎた、もう法事はこれを最後に、と話し合っ
た。次の法事はない、墓は維持されないだろう。今になって
振り返れば、まさしく数奇な生涯だった。母親は単に私をいじ
め抜いただけではなく、最初から、2歳過ぎから心底私を憎ん
でいた、その憎悪がまたすごい。途中、波はあったが、本当に
「殺す」、「死ね」などという普通はまずあまりまさそうな暴言
を数知れず浴びせられた。「殺す」は冗談で云ったはずはない、
本気でないと云える言葉ではない、怖ろしい凶暴さを秘めた母親
で父親も恐ろし残忍さをもっていた。よくぞ、こんな男女が巡り
あったものだ、同じ墓に入って、・・・・・絶句である。

 ともかく不幸の極みの家庭、両親のもと、さらに配慮はなく、
逆に不幸に導く配慮は心憎いほど、微に入り、細にわたり、であ
った。だがそれでも生きてきた私である。

 人生は玉葱だ、苦渋な気分で薄い皮を剥いでいく、一枚づつで
ある。それに涙をながすもいいし、玉葱の皮に舌鼓を打つのもい
い、だが間違いなく言えること、玉葱の皮を剥いで云っても中心
には何もない、ことである。い生き抜いた人生の先、終極に何か
がある?わけではない。玉葱は実は空っぽと思えばいい、ただそ
の苦い皮を味わって生きるのみである。人生とは玉葱の皮を味わ
うこと、それは苦い、不味い、それを調理して美味しく食べる人
もいるだろうが、中心は何もない。生き抜いてみたら最後は何も
なかった、ということと変わらない。人生はプロセスを味わうの
み、結果ではないのである。

 人生を100年生きてもそれは瞬時である、その瞬時さえまず生
きるのは不可能に近い、たかだか80年をいくらか超えるくらいで
それも保証されていない。そんな短い瞬時の人生だが、そこに詰
めこまれる苦しみのいかに莫大なことか、割が合わないとはこの
ことである。

 人生はひたすら苦渋な糧を味わうことのみに意味がある、究極
は何もないのである。玉葱との付き合いである。たったそれだけ
である。生きてきて、この宇宙は何の意味もない、と分かった。
全ては無意味だ、歎いても始まらないのである。

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