小林信彦『冬の神話』1962,集団疎開の散々な悲惨な地獄の体験、飢餓と非人間性の限界状況

地方、田舎に疎開した。国は「疎開は銃後の戦闘だ」と叩き
込んだが、実際、その学童集団疎開の実態は「銃後の戦闘」
どころではなかったかもしれない。これも地域で差異がある
のだろうが、小林信彦、1932年、昭和7年生まれ、東京生ま
れ、東京育ちで千代田国民学校在学中に埼玉県入間郡名栗村、
現在の飯能市に集団疎開、底での陰湿では済まされない散々
な体験を作品化したものだ。飯能というと東京にえらく近そ
うに思えるが実際、埼玉県の田舎度はかなりにのものだ。
その体験、・・・・・
1944年、昭和19年の秋、もう敗色が濃い、空襲はまだ本格
化市内が確実に予想されている。小学校は当時は国民学校と
称した、3年以上の都会の生徒たちは各地に集団疎開した。
親元を離れ、辺鄙な山寺などで食糧は全く欠乏している。こ
の世代にとって忘れられない深刻な体験だったろう。
一時期、それも今は遥か昔だが、「疎開派文学」などとい
う同人誌まで出たほどだ。この作品の「あとがき」にもある
が、「あのとき、この世の地獄を見てしまった」という。さ
らに、それは「自分にとって早過ぎる挫折であった」という。
極度の食糧不足に起因する飢餓と非人間性の極致の地獄、ま
さに極限状態に投げ出された子供たちである。これを読むと、
人生の少々の、少々でなくても、トラウマくらいで人生を投げ
てはいけないのだと痛切に感じる。ともかく赤裸々に当時の
状況を描いて余すところがない。
最初は半ば、遠足のような気分で今の飯能に来た東京の子
供たちであったが、教師の墓力、疎開先の冷酷な眼、食糧難
から急速に子供たちは人間性を捻じ曲げられる。もはや従来
の学校の秩序は崩壊し、全然通用しない。
級長である「私」、小林信彦は本名だから、小林少年である。
小林少年はブリキ職人の息子の浅田やその子分たちの暴力、リ
ンチにさらされる。結局、その暴力に屈する。特高刑事の息子
のおとなしい守谷は、以前母親がカフェーを経営していたため
非国民と攻撃されていた青木によって、逆に非国民とつるしあ
げられる。
親たちによる差し入れの多い少ないで、険悪な階層、階級対
立が生まれる。醜悪なあくどい争いが起こる。子供たちはその
辺りのアカガエルを食べ尽くし、芋ではなく、芋のつるだけの
食事で栄養失調に陥る。付け届け、暴力、密告、イジメ吊し上
げの横行する地獄絵図を呈する。もはや脱走を狙うだけが唯一
の生きる希望となる。
もはや児童文学、少年少女文学に見られるような子供の姿など
全く見られなく成る。大人と変わらないどころではない。そう描
かれているのは小林少年の「子供の眼」でものごとを見ているか
らである。食糧はない、他人は全て敵なのである。東京の子供た
ちである。油断がならない。疎開先の人たち、子供たちも都会か
ら食糧奪いに来たと憎悪の限りで襲いかかる。
この奸智に長けた都会の子供たちも、結局、ジフテリアや飢餓
で次々と死んでいく。3月10日は一時的に東京に戻る手筈だった
が、深川区などを中心とする焼夷弾無差別爆撃でほとんどの家が
焼かれて多くの子供は孤児になった。級長の小林少年の両国の
家も焼かれた。父親は死んで母親が自分を引き取りに来るのを寂
しく待つ身となる。まさしく散々な哀切に満ちている。
これを読むと少々の苦難の体験に挫けてはいけないと、逆に
励まされるような気分になる。この世は地獄である。
余談だが集団疎開と学童疎開は意味が違う?のかという質問
がネット上によくある。子供たちが集団で地方に疎開だから、
基本的に意味は変わらない。大人たちも疎開できたが、これも
実は許可が必要で、疎開を許されないケースも多くあった。大
人の集団疎開は基本的にはなかった。個人的にツテを利用して
の疎開である。
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