東洋の魔女、鬼の大松を生んだ「インパール従軍」経験
ボールチーム、の大松博文監督、なぜあそこまでの鬼の指導が
出来たのか、それは地獄のインパール戦線の従軍経験が大きい、
といえる。無論、インパール従軍経験があるからと云って、皆、
大松監督のようになれる、なることはなく、やはり根本は大松
監督の持って生まれたキャラクターがその地獄の経験を超熱血
指導に駆り立てるように仕向けたわけであるが、従軍経験、特
にインパール経験なくして東洋の魔女誕生はなかったと思える。
関西学院大学は本来は、戦前は関西学院高等商業学校で大松
博文監督は1941年に卒業した。その後はその時勢で応召である。
まず日紡への就職があった。1941年春卒号して日紡だったが、
その年末に早くも応召した。中国派遣軍独立輜重兵第二連隊であ
る。家族と別れ、広島に集合、その足で中国に向かう輸送船に。
揚子江を遡り、漢口へ、さらにトラックで旧江鎮に連れて行かれ、
初等兵教育。即座に殴られる訓練の末、保定予備士官学校に移さ
れ、幹部候補生としての教育を受けたがさらに訓練が激烈を極め
た。半年間の訓練、その後、ラバウルに移動、独立輜重兵第55中
隊へ配属された。年配者の多い部隊だった、そこで25歳の上官で
ある。壁にぶち当たったが、仕事はラバウルへの軍需物資陸揚げ
作業、部下よりも早く起きて、最も遅く寝た。重い荷物は率先し
て担いだ。いつの間にか、部下は何でも大松の命令に従い始めた。
「何ごともまず自らが体を張れ、すると道は自ずと開ける」
という信念をここで掴んだ。ガダルカナル移動の予定も、その
前にガダルカナルから日本軍は撤退、ダイマツらはビルマに移動
した。
そこで受けた命令はインパール作戦、牟田口廉也の無謀な発想だ
った。「烈」兵団傘下に入った。その日からインパール向けての進
軍となったが、4月29日までにインパール攻略の言明がくだされてい
た。
だたもともと作戦の必要性自体が疑われるし、さらに全く兵站の
無視も甚だしかった。圧倒的な戦力差が露呈、日本軍は英軍、イン
ド軍に挟撃された。さらにモンスーンの季節、食糧は完全に尽きた、
敵と戦うどころではない弾薬もない、マラリアなどの蔓延する最悪
の環境で飢餓と戦う地獄絵図となった。まさに絶体絶命にさらされ
た。
ビルマの雨季は地獄であり、川は急流となってごうごうと音を立て
手流れ、飢餓にさいなまれる兵士たちは渡河はまず不可能だった。
地形は急峻、一山こすのに何日も要した。大松らは道端の筍をかじり
ながら歩いた。栄養もない筍である。昼間は英印軍の攻撃である。死
の行進は二ヶ月続いた。
ここで第末は一つのことを悟ったという。死は死を呼ぶ、誰か一人
でも倒れると、仲間から「もうダメだ、俺はここで死ぬ、先に行って
くれ」となる。すぐに息絶える。
「自分でもうダメと思ったら、本当に人間はダメになる」
第末は筍をかじりながら、さらなる信念を獲得したのだ。裏を返
せば死線をさまよっても「何クソ、負けてたまるか」と自分を叱咤
し続ければ、死線さえ超えられるというのである。
戦後、日紡二復帰し、貝塚工場で女子バレーボールチーム、もと
は女工さんのリクリエーションだったが、これを徹底的に鍛え、日
本市の実力を見つけさせた。
河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、松村好子、半田百合子、
磯部サタ、篠崎洋子、松村勝美、藤本祐子、
全身傷だらけでコートに倒れる選手たちに大松は
「まだ生きてるじゃないか!」、「息をしているうちはやめるな!」
それはただ狂信的な空念仏でなく、大松自身の体験に基づいたもの
であった。インパールの死線をさまよって生還したあの限界状況での
精神力である。
大松は云う、
「そんな極端なスパルタ精神は戦時下のものだ、という人がいる、
違う、平和の時代でも本質は変わらない、平和の時代こそ戦いが
熾烈を極める」
と。復員した大松は昭和22年6月、故郷の高松に戻った。一面の
焼け野原だった。高松で生まれ育った大松、焼け野原を歩きながら
考えた。戦場の地獄の体験が妙に楽しい、と。平和の時代こそ、あ
の限界の絶対絶命の中から生きて帰る精神が生きてくると。
1978年11月24日、講演先の岡山県井原市で急逝、1921~1978.
57歳であった。今年、2022年は大松博文、生誕101年である。
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