「戒名」も「霊感商法」ではないのか、メディアの宗教攻撃はファッショに通じる
今回の「旧統一教会」への日本国内メディアの基本的に
は一丸になっての攻撃は正直、危険なものを感じる。特に
オウム以来、日本の国内メディアは宗教攻撃、新参者の宗
教攻撃は絶対的な善と見なすようになっているのは否めな
い。とにかく「新興宗教は悪だ」、実は古来からの日本の
新聞、雑誌の基本的な深層に及ぶ性格である。旧統一教会
の肩を持つのか、と言われるかもしれないが、以下な宗教
でも宗教信仰は自由である、それ自体にメディアが中傷を
加えることは出来ない、はずだが現実は見ての通りだ。
無論、統一教会、国際勝共連合、その他の団体の活動は
私はある程度承知しているし、大学内での左翼学生を追放
る原理研、日本青年協議会の活動には私は常に批判的であ
あった。・・・・・・だが、しかしである。この日本の
メディアの流れはいつ何時、他の宗教の袋叩きなる可能性を
もつ。
霊感商法を宗教的精神心理、による寄附行為、宗教への
金銭の寄附行為というなら広義の「霊」をもって教団、宗教
への寄付を求めるのだから全ての宗教は基本的に「霊感商法」
となる。日本の伝統的な葬儀仏教は「人は死ねば仏弟子」に
なるから「戒名」を死ねなつける、「死ぬことによって尊い
存在になる」、という仏教本来の考えと真っ向対立の考えを
あたかも仏教本来のものとして安定的な収入源を確保してい
る。これは江戸幕府が仏教を幕藩体制の支配の道具として利用
する見返りに安定的な収入源として「法事」を制度化させた。
人は必ず死ぬ、それをもって何回も一人の死で法事を行えば
寺院の安定収入となる、さらに戒名である。死ねば仏弟子だか
らランクのある高額な戒名料を出せ、など悪徳見極まれるだし、
仏教の教えに背くものだが、日本のメディアは古来の既成の
「霊感商法」は公序良俗とでもいいたげであり、新興宗教が
やったら「霊感商法」として攻撃する、というなら危険な大衆
捜査、世論操作というほかない。古来から続く、実質「霊感商
法」は好ましい尊ぶべき「伝統」」で、新参者が行えば袋叩き
はメディアの背徳である。天理教がピンハネ宗教といわれ、
「家や農地:を売ってまで寄付は有名な話だが、それとて自主的
なら他人がとやかくいうことはない、家族は迷惑だろうが。
ともかく生前の行いに一切関係なく、誰でも死ねば途端に至上
の尊い存在になり、仏になる、しかも仏弟子にもなる。死んだら
仏になるが、いちから仏弟子、釈尊の仏弟子になる、これは明ら
かに矛盾しているし、生前の行いに関わらず、だから生きている
うちは悪の限りをやったほうが得と考えるしかない、既成大仏教
寺院にやたらヤクザの大物が寄進し、ハイランクな戒名をゲット
するのも、全く当然の成り行きで日本仏教が日本人のモラル低下
に相当な貢献は確かである。いずれにせよ、死んだら仏、死んだ
ら仏弟子も大ウソの極みだが、本来的に生きて仏弟子の際に戒名
なのに、誰でも死ぬから死んだら仏弟子で戒名、は霊感商法以前
の開いた口が塞がらないペテンであるのは明らかだ。
基本的にすべての宗教は寄付に頼る、それが寺請制度で末端
の支配機構に組み込まれた既成仏教は明治維新で其の腐敗が憎
まれ廃仏毀釈の大運動が起こった、仏教廃止の運動である。しか
し仏教は国家神道にすりよることで生き延びた。
今回は
反共産主義的より、何よりも伝統的な韓国民族への嫌韓感情
新興宗教は悪であるという、国内メディアの伝統的思考
カルトというレッテルを貼ればいくら攻撃中傷してもいい
がコアにあるように思える。だがそれも「宗教はアヘンである」
というマルクスの唯物史観に結びつくのかどうか、思考の混乱が
著しいと思える。
この記事へのコメント
未知のことに対する、人間の弱みや不安に介入してくるのが宗教と言えますよね。統一教会も、創価学会も既存の仏教、キリスト教も同じ穴のムジナといえませんか。人はそれでも心の安心、平安を得るために多かれ少なかれ宗教とは離れられないのでしょう。そのことを他人がとやかく言うことは慎みたいです。