五木寛之『にっぽん三銃士』1971、こんなユーモア小説が書ける五木さんはすごいが、その気遣いが妙に息苦しい

五木寛之さんって、はて」、どういうイメージを持つだろう
か、これは痛快コメディーである。騙されたと思って読んで
損はない。「三銃士」大デュマは歴史家に書いてもらった代
作だが、「にっぽん三銃士」は代作じゃない。
新宿の酒場ネスパの常連、若くギターが上手い「風見一郎」
、医学博士で大学助手の「八木修」、ハイタク公論編集局長の
「黒田忠吾」という20代、30代、40代、今からすればよくわ
からないが、戦無派、戦後派、戦中派となるという。
ひょんあことから家を捨て、職場も捨てて、東京を離れて
何処かに行ってしまおうということで貨物列車にもぐりこむ、
夜明けを待つうちに、まもなく九州は博多まで運ばれてしま
った。これが話の発端だ。
遠くへ行きたいというのが望み、それが九州に到着とは、ま
あ、九州との縁が深い五木寛之さんらしいが、いまいち夢がな
イ、歌謡曲でも「北国へ行く」というのはサマになっても、九
州に行くのはどうも、という感じは否めない。ともかく滑り出
しは良かった。でも妙な息苦しさも最初から漂う。意図的な、
ユーモアという不自然さとも言える。
博多で三人はカラスのお新という姉御に拾われて、バーの飲
み残しを集めて玄海ビールの売出しに頑張るが、ヤクザにつな
がる女が絡んで、部隊は長崎から沖縄のような場所まで変わり、
船に乗ったり、飛行機に乗ったり、無銭であるが、気がつくと
北海道に向かう列車にイたというのがラストである。
つまり、・・・・終わりは実は初めであり、疎外された者ど
うしの詩という五木寛之の糸がこの作品でも活かされている、
が三人が現代人の典型、凡人ということが作品としての弱さに
通じていると思われる。凡人と典型の関係考えてみるのもいい。
対語なのか類語なのか?戦前に「浮世酒場」獅子文六があるが、
五木さんはそこまで読み込んで踏まえているという説もある。
黒田忠吾の性格にそれが現れているとも言う。
でも作者のユーモアの創造という気遣いが逆に読者には、か
えって負担に思えるような気もする。ケチを付けるわけでは
なく。
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