秦恒平『花と風』1972、近代の日本人が見落とす古典における「繰り返し」の重要性を指摘


 023-001.jpg谷崎潤一郎の『細雪』で三姉妹が京都の平安神宮の花見に
行くという有名な部分、

 「あゝ、これでよかった、これで今年も此の花の満開に行
き合わせたと思って、何かなしほっとすると同時に、来春の
花も亦此の花を見れますように」と願うが、それでいて

 「花の盛りは廻って来るけれど、雪子の盛りは今年が最後
ではあるまいか」

 と姉の幸子が思う此のくだりについて谷崎は、日本の伝統
文化の重要性を見出して、次のように述べている。

 「『繰り返す』ということを一つの避け難い自然の営みと
観た本当に目の利く人だけが『繰り返す』ことの単調さと退屈
を、そのまま新鮮な創造と絶対とに深めようとした」

 として藤原定家や世阿弥などを挙げ、これらはいずれも「
『みな繰り返す』ことを拒まないでしかも常凡な単調を乗り越
える道を見極めた」人だという。
 
 その『細雪』の中で「好きな花は桜、好きな魚は鯛」といって
いる点を挙げて、「『花は桜、魚は鯛』と言い切った谷崎文学の
魅力は、桜や鯛の、生命との象徴的な重さを日本文化の深みから
精一杯すくい取った所にある」と明確に述べている。

 従来、こういう見方は、月並みとか常套的として片付けられて
きて低い評価をなされてきたが、そこに重大なものを見落として
いたということなのだ。それを著者は明確に指摘したのだ。日本
文化における「花」と『風」の伝統を、新しい角度から再評価し
他評論が『花と風』なのである。

 著者の秦恒平は、中世の西行から世阿弥における「花」、近世
の芭蕉にいける「風」の意義を追求し、これまで軽視されていた
日本文化におけるこれらの特質の重要性を指摘した。言い換えれ
ば、西欧の近代主義に馴されてきた現代の日本人に、大きなことを
見落としている、と指摘しているのだ。

 とかく近代の日本人は感性と体の不一致に行きてきた。頭で近代
主義を理解しようとして、体ではそれをぎこちないものとして、別
なものに身を委ねてきた。日本人はその二重性であることの不具合
を述べていると言える。
 
 本書の「谷崎潤一郎篇」は、これまでに評価を逆転させ、欠陥、
欠点とされていたことに実は重要性があると述べている。「古い
日本」の再発見につながる、谷崎文学の再発見によって盲点とされ
てきたことを指摘している。とにかく同志社大文学部美学科だった
家を出ている、秦恒平の古典への深い造詣がなせるエッセイだと云っ
て差し支えない。

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