梅原猛『湖の伝説』(画家、三橋節子の愛と死)その人間性に感歎


 caption.jpg女性画家、三橋節子、1939~1975、人の運命とは、まさし
く残酷である。昭和50年、1975年2月に二人の子供を残し、
夭逝した女流画家・三橋節子の35年の生涯を見つめたら、誰
死も感涙にむせぶだろう、と思わざるを得ないのである。そ
の彼女も今存命なら82歳である。もう長い時間が経ってしま
ったとの感慨にも襲われる。遺作として「三橋節子画集」が
ある。厳粛なまでの使命感に急き立てられて。自身のライフ
ワークを中断してまで、自身とは三橋節子ではなく著者の、
梅原猛であるが、その梅原猛が書き上げたのがこの『湖の
伝説』である。三橋節子は梅原が学長を務めていた京都市立
芸術大学の前身の私立美術大学を卒業していることもやはり、
大きな執筆動機であったはずだ。

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 三橋節子は全く何不自由ないと思われるくらいの京都の良家
に生まれて育ち、京都市立美術大学に入学、思うままに自在に
才能を伸ばし、在学中に新制作展に入選。卒業後は、クメール
を旅行し、その絵画の感性を磨いて帰国後、同じ絵画の道を志
す恋人と結ばれた、順風満帆である。

 そういうまさに絶頂の時に右鎖骨の痛み、骨腫瘍だった。
節子は右腕の切断を余儀なくされた。利き腕である。画家とし
ての生命もこれまでかと思われたが、リハビリの常識を打ち破
って半年後には左手だけで百号の大作をものにしたのである。

 だがその喜ぶも束の間だった。今度はガンが肺に転移し、画
の制作に没頭の節子を苦しめ、その9ヶ月後に最後の入院、手術
となった。

 だが節子はなお制作の手を緩めない。発病以前を遥かに超える
周作を次々と完成させたのである。それは主として、琵琶湖をテ
ーマにしたものであった。
 
 まさに芸術の鬼とさえ思われるが、梅原はそれは結局、芸術と
は人間の表現であり、その純粋さがいっそう磨かれ抜いたからだ
と考える。

 幼い頃から慎ましやかで、余り目立たない節子だったが、そのイ
エス・ノーの主張は明確だったという。彼女は歩きはじめた頃、足
の関節を脱臼、ギブスを常にはめていた。小学校一年のときは、石
の灯籠が上から倒れてきて下敷きになた。受難があったが、打たれ
強かった。だからそのポリシーは貫徹され「右手がなくなろうと、
左手があるじゃないか、俺の手を合わせたら3本もある」という夫
の励ましもあった。周囲は常に暖かく励ましてくれた。

 私自身、初めて見は施設この名前を聞いたのはある書店の新刊
の広告がスピーカーから、「私の命はあと三ヶ月、・・・」と「
雷の落ちない村」の宣伝だった。それほどの切羽詰まった状態で
の次々の仕事だったわけである。

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 死と接して生きていて人への愛と気配りを忘れない、節子の絵は
つまるところ、人間と自然への節子の優しさの発露であった。梅原
はそれを仏教的なものだと云うが、それは疑問を感じる。

 絵はその本質から絵に全てを語らせるしかないが、節子の絵と、
人間性を梅原はともかく彼な解明はしている。多少納得できない
箇所はあるが。
 ともかく静かな感涙を誘わずにはおかない労作である。

 

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