中村真一郎『王朝文学の世界』1963,現代文学との対応づけがちょっと安易では
現代文学の源流を、平安朝の古典に求めようとする試みは
実際、中村真一郎に限らず、亀井勝一郎、佐伯彰一らにもよ
ってなされている。現代文学をそのように、歴史的なものに
、果たして照合し得るもか、どうか。ともかく当時は、1963
年あたりの日本の文学の状況は行き詰まりとみなされ、反省
的な復古運動がなされていたのである。近代文学を論じる場
合に、ヨーロッパ文学、その自然主義などに照合、比較して
論じられることも多いが、中村はこのヨーロッパ文学との
照合は誤りだというのである。
江戸時代の戯作文学を否定し、西欧の写実主義に学んだ、
自然主義に学んだという日本の近代文学が遂にはある時代
小説の大半が私小説かその派生の小説で、中世の隠者文学
が亡霊のように蘇ったと思うしかない散々な状況だった。
近代文学は江戸時代の文学を飛び越えて、中世に結びつ
いたわけであるが、それだけではなく、谷崎潤一郎、川端
康成、をみてもその作品の根底の美意識は平安朝の文学に
由来する、日本文学の源流は平安朝の文学だ、というので
ある。で、中村が云うには、現在の倫理的な隠者の文学が
市民文化の発展に資するには、すぐれて社交文学たる平安
の文学に戻って考えるべきだというのだ。
「王朝の女流作家」、「平安朝の宮廷作家」という章で
、女房たちがもちいた、ひらがなによる散文文学、源氏物
語、枕草子などの頂点から爛熟し、頽廃していく、という
筋道、それは文化の上昇とその後の低迷の必然だという。
女房文学、平安朝の女流文学の功績は、日本的感受性の
確立、日本における散文の伝統の確立に意義があるという。
だから王朝文学は滅びても伝統として生き残っている、そ
れは事実だろう、と思える。
源氏物語の持つ現代小説としての性格、大河小説としての
性格、さらに観念的な理想像を持つ、という意味で、現代
小説としてみても傑作だという。
とにかく中村に、こうも並べ立てられたら、「源氏物語」
はいたって現代人に身近なものというわけだろう。江戸時代
の源氏物語の反倫理性をもって否定されたことは、もう過去
の話で絶賛の嵐、とうわけだ。
基本は古典文学入門の本だろう、でも日本の近代、現代文学
との照合があまりに安易にすぎる気はしないではない。王朝文
学と近代、現代文学とには超えがたい距離があると思えるのだ
が、あえて割り切って単純に結びつけた中村真一郎の、・・・・
・・・・ずばり凡庸な内容の本である。古典は何も王朝文学ばか
りではない、今昔物語を王朝文学とは云い難いだろう、さらに
広い古典がある。王朝文学に普遍性があるとも云い難い。
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