斎藤庸一『詩に架ける橋』1972,詩にかけた魂の結実 恐るべき労作


 恐るべき労作といえる。著者の斎藤庸一氏は福島県に在住
して、その土着の生活に根づいたテーマを詩において追求した
真の詩人といえる方である。ローカル詩人ながらこの本までに
数冊以上の詩集を刊行していた。中央では知られない詩人だっ
た。基本は一人の農民の男を主人公として、底辺に生きる農民
の苦渋と悲しみを、実に苦々しいユーモアを込めて詩にうたう。
連作詩集として『ゲンの馬鹿』、誰しもゲンと云えば『はだし
のゲン』被爆少年のコミックを思いがちだが、ここのいる「ゲ
ン」こそ本物ではないだろうか。方言の効果を生かしている、
これも「山芋」という詩集を思い出させる。なんとも人間臭い、
現実を凝視、リアリティーである。

 この本は詩集ではなく、そのローカル詩人が同県内に住む農民
詩人、三野混沌や渕上毛銭、山之口貘、火野葦平、尾形亀之助、
石川善助、草野心平、会田綱雄など、詩を求めての旅の途上で出
会って感銘を受けた詩人たちを、生存者は直接尋ねてその話を聞
き、亡くなった詩人では書かれた著作と縁者の記憶、回想などで
その人間像を描く。詩というものがいかにして生まれるのか、と
いう根源を執念深く探っていく。詩的な旅というべきである。その
詩への強烈な愛情は、確かに詩の霊がこの著者に宿っている、と
思わせるものがある。著者はこの本の完成に12年の年月をかけた
という。詩野甘しいの根源を探究するその執念はこの世のものと
も思えないほどだ。例えば三野混沌という詩人の「地の果」という
一遍の詩、その感動でその作者本人を訪ねてはその片言隻句を記録、
克明な記録、病床の深瀬基寛を訪ね、この英文学者が「母の墓参り
をもう一度やりたい」というふと漏らした言葉から、その死後、そ
の故人に成り代わってその故郷の高知まで出かけ、墓参を行う。

 主に取り上げられている詩人は農家出身か農民の詩人たちである。
百姓の子を自認してやまない著者のこの本にかけた努力と情熱は、
この点に帰せられるのだろう。無名に近い研究されていない詩人を
多く取り上げている。丹念な取材である。その資料的価値も貴重だ。
福島の地にこの詩人あり、と感歎するのみである。

この記事へのコメント