閣議こそが国権の最高機関、国会は単なる飾り?見せかけの民主主義
安倍元首相の「国葬」が行われるそうだ。別に関心はないが、
やぶ蛇国葬、のようで滑稽である。だが本当に気になったのは
「国葬」法という明確な定義づけるものはない、税金支出の「
国葬」の是非となるのだが、当然ながら「国葬に法的根拠がな
い」という市民団体などからの批判が噴出している、のに対し、
擁護的な論調では「閣議に置いて国が主催の儀式の決定ができ
る」ということから「閣議決定こそが立派な法的根拠」だ、と
いう反論の持つ実は深刻な問題点である。
集団的自衛権でも、閣議で「法解釈を変更」することで自衛
隊の運用など大きな変更が国会の議決をパスして「法的根拠」
をもつ、法的な有効性を持つにいたった、という事実がある。
「法律」と「規則」、「法解釈の変更」の区別が実は運用次第
でいくらでも曖昧化出来る、という国家構造のいわば大きな欠
陥というべきものなのだ。
しかし正規の「法律」なら「閣議決定」より「国会議決」が
優先かと聞かれたら、確かに国会の議決を経ないと「法律」は
成立しない。しかし多くの要素から、現在は国権の最高機関が
閣議であることは明白と断言できる。
まず基本的に議院内閣制である。立法権と行政権が癒着、と
いうより行政権が立法権の国会を単に利用しているに過ぎない。
三権分立とは全く無縁といっていいが、日本の教育では「日本
は三権分立」だと洗脳的に叩き込まれている。
内閣の大臣は議会から基本的に選ばれる。一定以下は議会の
外から選んでもいいが、実質、ほぼ全員近くは議会から選ばれる。
なら議会が行政権を支配しているのか?と思うが、逆である。大
臣は、大臣となったが最後、どこまでも各省庁の利益代表として
働く、専門知識は官僚が持っているから「省庁のために働くデコ
人形」が「大臣」と称される者たちの本質である。大臣のキャラ
クターなど無視できるものである。そもそも国会議員自体が、自
民党は官僚出身者が多く、特定省庁の利益を請け負うような議員
も少なくない。したがって元官僚の大臣も多いわけで、議会の
行政への従属
そもそも国会での大臣などの演説、主要な答弁は全て官僚が作
成したものを読んでいるだけであり、また国連など、それ以外
での国際舞台での閣僚のスピーチも全て官僚作成の文章を棒読み
しているだけである。岸田首相の「国連総会演説」も外務省官僚
作成のもので、ようは全て官僚が仕切っているわけで、議会など
は有名無実ということである。だから安倍元総理のように漢字
が読めない人物は官僚作成の文章中の「云々」を「でんでん」
などと読むわけである。
まず圧倒的に大半の法律は各省庁から出される。そこでは形式
的に「審議会」などが設けられ、正当性の口実ともなっているが
警察庁のように法で審議会設置が認めらていない省庁でも、これ
も例えば「高齢者の免許更新」にまつわる法改正で堂々と御用学
者たちを審議会に招いて正当性の根拠としている。
法律は閣議決定で国会の議決を経て法律と成るが、内閣が省庁
の傀儡化している以上は底で官僚の作成の法律案を否定、あるい
は大きく修正を命じることはめったにない。続々と「閣議決定」
で国会に送られるが、
本質的に選挙で一票でも多ければ全部取る、という「小選挙区
制」があるから、基本的に草の根保守が国民に染み渡り、さらに
保守合同がなされて保守の永久政権という構造ができあがってい
る日本で、選挙も形骸化し、さしたる得票率でなくても保守の相対
一位が恒常化の日本では、小選挙区制で完全に保守永久政権は確定
していることである。民主の一時的政権はあくまで例外である。
さらに比例代表並立制であり、欧州の併用制と大きく異なる制度だ
から比例選挙で大きく修正されることもない。また小選挙区制で、
党の幹部による公認権のちからが大きく増して決定的となり、議員
が議決でここに反対は、まず極めて稀となる。
つまるところ国会は行政権のために飾りでしかない、その行政権
と立法権の国家をつなぐものが閣議決定である。立法権とはいうが
実質、国会に立法権はない、国会は利用される踏み台でしかない。
全ては閣議決定である。
このような国家構造は腐敗を生む、日本のだめな理由は議院内閣
制による国会が行政権の翼賛機関、お飾りとなっている点にある。も
うどうしようもない、ということだろうか。
ことの本質は、これでは、国民の意見が全く反映されないという
日本の絶望的な非民主性問題である。選挙中の馬鹿騒ぎなど、現実に
国民の具体的な要望が国政、その法制度に反映されることがない、と
いう意味であまりに愚の骨頂である。選挙になると漠然たる「景気回
復、物価安定」ばかりでこれほど無意味な騒ぎもないだろう。
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