大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』筋は難解、根底に流れる「ミカド」への批判的視点

とは、「近代天皇制」は「天皇制」ではない、なぜなら近代
に「天皇制」は本来あり得ない、天皇制は過去のものである。
では今の、明治以降の「近代天皇制」とは何か?それは天皇
という古代的存在を近代国家において統治に利用するための
近代官僚制の端的に云えば道具である。近代に天皇はあり得
ない、にも関わらず近代官僚制がやたら教育とか儀式、祝祭
祝日などをフルに利用するのかと云えば「近代天皇制」は「
近代官僚制」の一つの仮面であるからである。にもかかわら
ず国家は、つまり近代官僚制は「いまある天皇制は古代から
んもの」と国民に叩き込みたい一心、だからの明治以降の
近代天皇制アイテム、国歌、国旗、さらに古代からの「元号」
に異常なまでに執着する、政治家などが「男系天皇」、「万世
一系」などという現実からすれば荒唐無稽を声高に叫ぶのは、
近代ではあり得ない「天皇」を、「古代から連綿と続いている
もの」とただアピールしたいからである。近代天皇制はあくま
でも近代官僚制の要素である。近代官僚制、近代的諸制度なく
して明治以降の日本人が考える天皇制はない、メディアもない
に等しく、統一的な強制的教育制度がなければ不可能なことは
当然であるが、またこの論点は述べてみたい。
さて、大江健三郎さんの1972年の作品、大江さんの小説のタ
イトルは奇異なものがよくある「芽むしり仔撃ち」は典型だ、
この作品のタイトルもだ、まあ、1970の平岡公威の乱入、割腹
、バルコニーから「日本の文化を守るとは天皇を守ることだ」
少し前の「文化防衛論」の考えだろう、だがこの本、はっきり
云えば、およそバカバカしくて読めるものではない。「文化防衛
論」がである。
その乱行、愚行への皮肉という意味合いもあったのだと思う。も
もう一つ『月の男』という作品も同時に収められている。二作品に
共通するものは大江さんのテーマ「純粋天皇」という独自のミカド
批判の具現である。
あらすじはよくわからない部分はあるが、
主人公の「かれ」は35歳、肝臓ガンを患い、自らをガンそのもの、
ガンの魂であると信じ、正気と狂気の間を彷徨っている。さらに、
かれの「遺言代執行人」の看護婦に、ひとつの「同時代史」を口述
筆記させている。かれはこの看護婦と性的な関係を持っている。ま
た妊娠もしているようだ。なお最後に、かれはこの看護婦にアメリ
か人と結婚し、子供はアメリカ人の養子にしろと命じる』
かれの過去を掘り起こす、幼児回想物語「同時代史」が始まる。
かれの父は満州の軍部と関係のあった黒幕の一人で、東条首相と
石原莞爾との仲を取り持つために運動を展開し、その後は故郷の
谷間に戻り、蔵屋敷に閉じこもり、膀胱ガンにかかる、大江さんは
本当に作品にガンを取り入れるのが好きな作家だ。しかし敗戦時、
脱走兵に呼び出され、徹底抗戦派の軍人たちと決起しようとして
殺される。だが母は大逆事件に関わった人物の娘であり、父と不仲
になる。
父はこの作品で「あの人」と太文字で印刷されている。タイトル
は、バッハの独唱カンタータの一節で「涙を拭いたmなう」のは
ドイツ語のハイラント、救世主だが、「あの人」はそれは天皇だと
考える。「天皇陛下が御自らの手で、私の涙を拭いてくださる。死
よ、早くこい」それが「かれ」の中に残っている。つまりこの作品
はミカドに関わる黒ミサの話だから、至ってグロテスクになるのは
当然だと思う。作品としてはアラヒトガミに救われることを夢見る
アメリカ人を描く、「月の男」のほうが面白いだろう。
え、大江さんの天皇認識?三島を皮肉っているって?似ても似つ
かない気はするが難解な小説だ。読みきれない。
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