金子兜太『定住漂泊』、「定住」と「漂泊」のアウフベーヘン?俳句に潜む日本的伝統を論考


 img_5f80e7f5c6f594fd6d9762cab8149eea358300.jpg同様のタイトルの本が、多少異なるタイトルだが、金子兜太
氏の死後に刊行されている。この本は本来の『定住漂泊』とい
う金子兜太氏自身の著作である。すでに多くの箇所で発表して
いた、機にふれて書いていた文章を集めたものであり、多くは
俳人論、俳句論的な随筆、随想であるがそれ以外でも雑文めい
たもの、思いつき随筆も含まれていて、おおまかに三つに分け
て整理している。

 まずその一つは、種田山頭火や尾崎放哉らの放浪俳人を中心
としており、芭蕉、一茶、北斎など、その他の漂泊の人にも言
及しており、随想のようで内容は考察的である。

 金子氏はそれの中で「日常漂泊」とか「定住漂泊という考え
をしきりに出す。どう考えても余り使われない、というよろ金
子氏以外は使わない言葉だが、さらに「現郷」とか「現実」と
いうことをよく持ち出す。「現実」は当たり前な言葉だが、
「原郷」とは、むろん、意味はおおよそ見当がつくが。

 要は、純粋な人間性の理想や憧れと実際の人生との現実的な
ギャップから、放浪、漂泊の思いが生まれるという。その思い
をさらに、自己の凝視によって一段と高い理念で自己を客観化
し、思想化するとき、単なる放浪、漂泊を越えた「定住漂泊」
者となり、芸銃的理念者としての漂泊表現者となるというのだ。

 「定住」と「漂泊」は対語のようだが、それがアウフベーヘ
ンされる、止揚されるという俳句にまつわる日本的伝統の論考
である。

 されど、このような金子兜太氏の理論、論考は魅力的に思え
るが、その俳句の実際の作品と同様に、不思議に熱っぽくもあ
あるが、何か雑然としてわかりにくくもある。止揚はそんな簡
単なものではない、はずとも善意で思えるが、どうも、「ほん
とかよ?」と云いたくなるほどに、スッキリしていないのは事
実だ。

 もう一つの部分は「高浜虚子」を考察したもの、「石田波郷」
をテーマにした文章、そのまえの「定住漂泊」論とともに、雑文
の多いこの本では、これらの論考が中心となる。
 
 「高浜虚子」論でも金子氏はあおの俳句界での功罪を思いつく
まま語っているが、

 「私なりの言いかたをとれば、その志向が流転客観であること
は前述したが、それが諦念に向かわず、処世への透明はな透視
となって鍛えられている」とその俳句の俗物的な性格、俳句誌の
経営、「芸文と実生活をどう相対させていくという考えから生涯
、離れられなかった」として、作品では現実の憂愁をわすれてし
まった、という。石田波郷については、その古典性が、表面j的な
形式に堕し、心の真実と乖離してしまったと結論づけている。
石田波郷の古典の尊重を金子氏は全否定しているようだ。

 金子兜太氏は真にその詩的な精神を発揮するには俳句より、詩
こそ向いていた素質ではなかった、とも思えてならない。俳句の
あまりの制約の中で一字一句で騒ぎ立てるより、広い芸術の世界
があったのでは、と思う。

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