『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』藤谷 (岩波新書)「おかげ参り」と「ええじゃないか」同一説

つまり、最後の「おかげまいり」が「ええじゃないか」であっ
たのである。この本の特徴の第一は、しかし、この二つの歴史
事象をタイトルで並べている、ことである。
近世日本では、伊勢神宮参りが集団的に、さらに周期的に
行われた。それを「おかげ参り」といい慣わしている。大規模
なものだけで七回起こっており、その最後が例の「ええじゃな
いか」だったという、これは意外に盲点かもしれない。「ええ
じゃないか」は1867年、慶応三年である。これは大混乱を呈し
たが長年の重圧からの解放感の爆発だった。ただし、これだけ
は政治的な作為とも思われるという。
他の「おかげ参り」は自然発生的なものであり、日本各地か
ら伊勢神宮に向かった巡礼的行動だった。これが、なぜ起きた
のか、である。明治以降の皇国史観はそれまでの民衆に吹き込
まれていはいなかった、決して、天皇崇拝で、「皇祖神」を祀
ているから伊勢神宮に民衆が向かったものではない。民衆には
公家勢力は関係ないことだった。
で著者の藤谷俊雄はまず「伊勢信仰の歴史」から始めて、「
巡礼運動への集団参宮」へ至るプロセスを解明する。
著者も言うように、伊勢信仰は明治以降の皇国史観、天皇制と
は全く無関係なものであり、「皇祖神」を参るなどという気持ち
は毛頭なかった。これは当然である。伊勢信仰は近世までただの
一度も「国民的」、「民族的」信仰であったことはなく、もし
多少でもそれがあったのは京都の公家勢力の中においてのみであ
った。あるいあ一部武家の棟梁一族の中だけである。民衆は伊勢
神宮に農業神を求めたのである。
しかし室町中期以降は伊勢神宮が衰退の極に達したことが神宮
内に危機感をうみ、神宮の御史が自衛のために日本各地に大麻を
くばり、伊勢講を組織し始めた。そこから庶民民衆との結付が生
じてきたという。
だが神仏習合になれた民衆は、中世仏教の「來世での成仏」よ
り、「現世利益」を第一にして、観光的な旅さえ用意したことが
大きな魅力となった。
単なる参拝ではなく、「おかげ参り」は「抜け参り」というよ
うに、家人にも雇い主にも黙って抜け出して、それが大集団とな
って伊勢神宮に向かったのである。再生機には一回で150万人、
大きな金が動いたという。しかも僅かな小遣い銭しか持たないた
めに、「施行」として豪農や豪商、また大名までも食糧や草鞋を
与えたという。取り壊しなどの襲来を恐れる気持ちもあったにせ
よ、とにかく民衆には藩の拘束も受けず参拝できるという魅力が
あった。
そうした集団行動は、多くの小僧とか、こき使われる身の者が
抜け出すきっかけともなった。それで各地に急速に広まった、
根底は解放感があった。だが後期になるほど、猥雑さ、乱雑さは
増した。最後の「ええじゃないか」では卑猥ともなったようであり
、踊り狂いながら打ち壊しに近い状況となった。倒幕運動から目を
そらさせるための陰謀だったとも云われる所以だ。
今川昌平監督の「ええじゃないか」には失望させられたが、この
本は岩波新書らしく、真面目に実証的な解明に徹し、さらに革命指
導があったら、反封建の民衆運動になっていた可能性も指摘する。
でもこれには疑問符がつく。
しかし、本当に最後の「おかげ参り」が「ええじゃないか」だっ
たのだろうか?やはりこれは疑問だ。旅の行程は伴っていない「
ええじゃないか」である。
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