石川淳『喜寿童女、ゆう女始末記』1963,鼻につくが、まあ秀作だろう


 images (1).jpg全く知らなかったが、1980年代に石川淳ブームというもの
があったようだ。それほどの人気だった?イメージとしては
東京外語のフランス語出のフランス語通、だが実際は和漢洋
に広く通じている、これはその血筋というべきか。なんだか
こわもてでその学識と孤高、そのくせ、おつに砕けた平談調
の語り口をも駆使し、それが得も言われぬ魅力に写ったよう
だ。一人、悦に入って俗談平話で自ら手拍子ででもやりなが
ら語るのは、なんとも鼻にもついて、これで嫌っていた人が
多かったそうだ。『紫苑物語』、『鷹』とか思わせぶりな
政治臭い、難解な小説を書いて文壇からもそっぽを向かれ
ていたものだ。だが昭和38年、1963年ころはだいぶん改心
したというべきか、自由気ままな遊びの境地のような小説
を書き溜めて単行本で筑摩書房から出した、記念碑的!な
短編集である。

 その鼻にはつくが、独自の平談調で、隠微だが文明批評
も仄めかし、さりとて文明論ではなく文で遊ぶ、文に遊ぶ
というべきか、たしかに一風変わったヒネた文人的要素は
ある。

 この短編集の「喜寿童女」結構な種本があったのだろう
か、江戸末期の名妓の花女の機会で不可解な生涯を描いた
ものだ。なんでも有名無目合わせて千人以上の男と通じた
という花女は、77歳の喜寿に何者かに誘拐される。これは
色道に長けた童女をという将軍、家斉の求めに応じたもの
で、長崎で秘法を修得した行者の千賀一栄が花女を童女に
仕立て上げるためであった。

 一栄は、誘拐拉致した花女を生涯一度の秘法で色道の
知識技術はそのままの11歳の童女に仕立て上げた。家斉
はこの童女をいたく愛し、家斉の死後は数々の男の手を
経て最後に伊藤博文のものとなり、その暗殺とともに不老
の童女も死ぬ、という荒唐無稽な話を稿本で追うという、
奇妙キテレツな怪奇なメルヒエンである。だが、いやでも
印象は強烈で、石川淳は落語家の素質があるとも思わせる。

 「ゆう女始末記」はロシア皇太子のニコライ一世来日で
大津事件、日本国民の誠意を示すとして京都府庁の前で
カミソリで自殺を遂げた、と事実を淡々に記す作品である。
房州生まれの出戻り女で、日本橋の魚問屋の女中がなぜ?

 独自の落語めいた文章を自在に、反発も感じるし、鼻に
もつくが、正直、これはこれでスキはない。本当にいやな
作家である。

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