与謝野蕪村と歌舞伎、異常なまでの毒舌
与謝野蕪村が歌舞伎に熱を上げていた?摂津の生まれで
結局、京都に定住した蕪村だから、芝居に関心熱意があって
も不思議ではない気はする。元来は芭蕉の陰に隠れ、埋もれ
ていた存在だったが、明治以降に正岡子規、さらに萩原朔太
郎が高く評価し、発掘したという具合だ。あまり語られない?
気はするが、蕪村は大変な芝居好き、つまるところ歌舞伎が
好きだったとは、もちろん孫引きだが、田能村竹田の著書の
その旨が書かれてあるという。
竹田の本では「蕪村の門人が夜遅く、師匠の宅を訪ねたところ、
雨戸がすべてしまっている。家の中からドタドタと奇怪な物音
がする。不審に思って戸を叩くと、やがて蕪村が顔を出して、
今夜は妻も娘もいないので、一人を幸いに芝居の真似事をして
いた、という・・・・・」
芝居とは歌舞伎である、基本は関西の人間であり、典型的な
上方人であったという蕪村だから、芝居好きは自然だろう。
だから「屋職楼台図」という蕪村の絵は歌舞伎の舞台と構図の
採り方が似ているという意見もあるのである。何か雪舟のよう
だが。

蕪村は歌舞伎が好きなだけあって、歌舞伎への意見も相当
なもので、残された書簡では歌舞伎の舞台を容赦なく批判して
いるという。これも紹介でしかないが
「四条の北座を見物してきたが、十蔵は古今独歩の下手くそ
で目も当てられない。奥山もへまばかりで散々、半五郎にいたっ
ては、上手下手の輪にかかる代物にてこれなく、こんなひどい
芝居を見せられたのでは、毒気にあたって発熱しそうだ。だか
ら今日はそれで寝込んでいる」
この中の俳優たちは中村十蔵、浅尾奥山、坂田半五郎などで
当時の名優だそうだ。蕪村の毒舌にかかると、まったく頭ごなし
でどうにもならない。だがこれも、蕪村がいかに歌舞伎に傾倒し
ていたかの証左というしかないだろう。
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