参る人がいない墓は、この世にないのと同じか?

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 墓とは何か、あくまで生きている人のためにあるとは思う。
生きている人とは、自分自身も含む。だから生前墓を作らな
いと意味はない。〇〇家の墓、とあってそこに入る、ならいい
が、これも何らかの、別に子供でなくとも親族でなくてもいい、
慕って参ってくれる人がいる限り意味はある。だがこれからの
世の中、少子化と住居の移動は激しく故郷に〇〇家の墓があっ
ても結局、参る人はいなくなる。

 つまらないことを云うようだが、死んだら「無」になる、と
はいう。私は「無」でさえない、と思う。死とは「あらゆる設
定がなくなる」だから時間の設定もない、からそれこそ宇宙が
誕生の「負の虚数時間」もこれから10の100乗年後、最後のブ
ラックホールが蒸散して消えてしまう、その時間も死ねば同じ
ことだ、「時間の設定」もないのだから、だから『生きていた」
という実績もない、それを「無」というと言われたら仕方がない
が、私は無という設定に乗り得るものではないと思う。

 だからどうした?墓である、墓はあくまで生きている者のため
にあるということ、死ねば「設定自体」消えるから、論じる意味
がない。墓は作るなら生前に京都に、が理想だと思う。参る人が
いるなら継続だが、慕って弔い、参ってくれるひともないなら、
この世にあろうがなかろうが同じことだ。「骨」などに意味はな
いと言うしかない。もう体が焼けて煙になっているのだ。それが
釈尊のように遺徳のある偉人なら後世の人が慕ってその遺骨を、
弔うなら意味はある。だが、もう誰も参る人すらないなら、あっ
てもないのと同じ、だが寺院や霊園はその地所からの収入を当て込
んでいるのだから、『参る人がいないのは墓がないのと同じ」とは
言えない、早く墓石を撤去し、他の人にその地所を売りたいだろう。

 母方の祖父母とその長男、まず祖父が亡くなり、それから十数
年以上して祖母がなくなった。その前に長男が死んだが、墓もな
いから祖父母の墓に入った。最後に祖母が、だが墓石は最後まで
建てず、後継名義人をなぜかその寺院、妙正寺というが、長男の
離婚した妻、その娘に決めた、戻った家は福山市のSとい、その
住職は「Sは金をもっとるんじゃけー」と金目当てが露骨だった、
だが離婚した妻の娘、むろん長男の娘でもあるが一切応じない。
寺院は後継者を探すため市役所などで戸籍を調べ、現住所を調べ
る権限がある。で仕方なく私の兄の住所を探索し「後継」を誘っ
たが無論、応じるはずはない・妙政寺は「あの場所はいい場所の
で高くまた売りたい」もう売って他人の墓が建てられているだろ
う。もう祖父母と長男の墓は雲散霧消、卒塔婆しかさいごまでなく、
撤去は楽だったはずだ。それにしても露骨な金目当て後継者!を
勝手に決めた寺院はアテが外れてしまった。

 墓の後継は今後、難問だ、「相続財産」だというがぜひとも
相続!したいと思うものは少ないだろう。経費がかかるだけであ
る、故人を弔いたいと思う気持ちがあれば別だが、それもないケ
ースが多い。負担をかけない、というなら家庭墓も選択肢だろう。

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 さて、私の親の墓だが、もう私は参らない。寺も私は後継と
見ていないから幸い、云っては来ないだろう。だが長男、その
子供が維持、つまり地所の使用料としてのお布施、寄付を永続
して行う?はずはない。死んだものはもうわからない、参る者
もないなら墓はないのと同じだ、ただ墓の土地を貸している寺
院の収入だけが問題となる。

 だから、・・・・・・生前樹木葬には意味があると思える。死
んだらもう関係ないのだから。参る人もいつかは消える。全ては
自然に戻って忘れられることこそ至福であろう。

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