林直道『百人一首の秘密』1981、先行の織田正吉さんを激怒させた問題の本


 神戸大学法学部の先輩の織田正吉さんは1978年に『絢爛た
る暗号ー百人一首の謎を解く』集英社を出された。その3年
後に今度は旧制大阪商大、戦後の大阪市立大を出たマルクス
経済学者の林直道さんが『百人一首の秘密』をさすがに青木
書店から刊行、画期的な発見!ともてはやされたが、織田正
吉さんは「私の方法論を下敷きにして結果だけは違ったもの
にした」と激怒、カンカンだった。林さんは99歳でなおご存
命だ。1923年生まれ、

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 それはそうとしても、ガチガチのマルクス経済学者がなぜ、
百人一首?と怪訝に思うが。

 ともかく百人一首とは?女性天皇の「春過ぎて夏来るらし
・・・・・」の万葉の名歌を、まったく悲惨に改悪したりで
私は全然、好ましい印象は持っていなかったのだが。

 藤原定家がこの小倉百人一首を撰定した時代とは?武士階級
が台頭し、それまでの社会の支配者として君臨してきたはずの
公家、貴族階級実権を徐々に失っていく時代、いわば日本史の
大転換の時代であり、後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒のクーデター
が、承久の変、失敗に終わり、・・・・・といたって概括的だ
が、これが実は百人一首に秘密が込められた背景だというのだ。

 いわば推理小説の手法を使ってその秘密を見抜く、端的言えば
この本は百人一首の謎を解くことで、藤原定家が自己の原点とし
た「紅旗征戎吾が事にあらず」という信念をいかに貫徹したもの
か、その証明を行ったのである。

 その証明の方法は、当時、大流行だったルービックキューブの
6面をすべて完成させるのに似た「言葉合わせのジッグソーパズ
ル」だという、林さんによれば「歌織物」だという。織田正吉さ
んにしても林さんにしても全くもって国文学者ではない、ないか
ら斬新な推理が可能だったわけであろう。

 林さんはマルクス経済学者だ。社会生産物を生産手段生産部門
と消費資料生産部門とに分ける「再生産表」からの連想で、百首
を「景色の歌」54首と「情念の歌」27首に分ける方法を発見した
結果、全貌が明らかになった百人一首とは

 ①百首はタテ10首、ヨコ10首の方形の枠の中に、上下左右隣り
合う歌同士が何らかの共通語で全部結ばれ、配列されているとい
う「歌織物」の構造を持っている。

 ②この歌織物は

 右から7列目をタテに走る月八景によって二分され、右側6列分
は、合わせ言葉の絵の具の代わりに、山紫水明、美しい日本の四
季の景観が豪華な柄模様になって描かれ、これに対し、左3列は
恋、恨み、嘆きという情念が織り込まれている。

 3しかも、この絵は新古今歌壇の故郷、水無瀬の里のリアルな
描写である。

 ④またこの歌織物の四隅に、四人の主要人物、後鳥羽院、順徳院
式子内親王、さらに定家自身が配置され、3人の「帰って来ぬ人」
に対し、「来ぬ人を待って身も焦がれつつ」と定家が呼びかけると
いう構図になっている。

 ⑤で、歌織物の右半分には後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無
瀬川」の歌、左半分には式子内親王の「軒端の梅よわrを忘るな」
の歌が合わせ言葉文字鎖の技法で封じ込まれ、さらに定家の返歌の
体裁で「裏の苫屋の秋の夕暮れ」と「匂ふ軒端の春の夜の月」と下
の句が封じ込まれている。

 とまあ、現実、ややこしい。でこの「解読」から何を引き出した
のか?であるが、定家は「紅旗征戎吾事にあらず」、吾事とは歌の
道、と承久の変で敗れて流された後鳥羽院、順徳院に背を向けた。

 しかし鎌倉=紅旗征戎は定家の吾事に介入し、新勅撰和歌集から
後鳥羽院、順徳院らの秀句を削除するよう要求してきた。そこで
定家は幕府への反逆者の二人の帝の政治的恨み歌で百人一首の掉尾
を飾ることで自己の主体性を守り抜いた、となる。

 百人一首は反幕府の非合法の政治文書、「青白きインテリの定家
のせめてもの抵抗精神の現れ」となるという。

 確かに読めばなるほどと思う、もの好きだけで定家がこのような
歌の撰定を行ったはずはない。これを信じられるかどうか、納得で
きそうだ。

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