河上徹太郎『私の詩と真実』講談社文芸文庫、まことに幸福な自己形成史

現在でも講談社文芸文庫で入手できる。初版は1954年では
ないだろうか。文芸評論家として一世以上を風靡した河上徹
太郎の自己形成し、「詩と真実」である。この初版の頃は河
上さんは50歳くらいか、その時点で青春を回顧しながら、そ
の、自己形成、さらには生成変換をかなり緻密に述べている
ようだ。
ヴェルレーヌを愛読し、中原中也や小林秀雄と知り合った
り、早く亡くなった富永太郎の詩から影響を受けて、東京の
街々にその実感を求めて一人彷徨うところから河上さんの青
春は始まったようだ、
だがそこには「呑気な美的鑑賞家ではあに覚悟」があり、
「知的な、人生批評的な要素」があった。それは「あまりに
知的水準が低い当時の文壇への反抗」と「一般社会の俗物に
対する嫌悪感情」に密接につながる思いだった。こうして若い
時代の河上徹太郎さんは徐々に「批評家」となる素地を作って
行ったのだが、河上さんの青春像を形成するもう一つの教養も
あった。・・・・・・それは音楽による感受性の洗練である。
河上さんは音楽批評家としての大きな位置を占めていたのだ
が、自ら18歳からピアノを始めている。日本人としてはそれほ
ど多くはないかもしれない、詩と音楽によって芸術的理解の精
神を自己の内部に確立した河上さんは、20代でジッドと出会い、
急速に文学に惹かれ始め、ついにはそれを一生の仕事、生きが
いとなし、一生の業とした。今後の人生ではモラリッシュなエッ
セイストとして生きていきたいという覚悟を結末で述べている。
河上さんは物質的な欠乏、貧困とはまず無縁であり、好むま
まに芸術の世界を彷徨できた。これが河上さんの教養を際限な
く豊かにしたと同時に、結果として河上さんはかなりのブルジョ
ワ的なディレッタント、好事家的な批評家としている。
ざっと拾い読みしても、文学が時代において果たすべき役割
とか抵抗性とか、などという要素は見られず、ひたすら、ある
がままの芸術の享受という鑑賞家的な性格に染まっている。そ
れが河上徹太郎さんの文芸批評の根底にあるのだが、それだけ
でよかったのか、という気はする。だが1902~1980,亡くなら
れた40年以上が過ぎた。この「私の詩と真実」は読売文学賞を
受賞したという。ユニークな作品には違いない。
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