都井睦雄事件が「加茂の三十人殺し」から「津山三十人殺し」の名称変更による「津山」のイメージダウン
1938年、昭和13年5月21日未明の都井睦雄による大量殺人
事件、現在は「津山三十人殺し」だが実はそれは比較的、最
近の話であり、発生以来、ずっと「加茂の三十人殺し」と称
あれてきた。事件当時は「西加茂村」と「加茂町」、「上加
茂村」、「東加茂村」が存在し、その「西加茂村」で事件は
起きたわけである。昭和17年に東西の加茂村と加茂町が合併
し、新加茂町に、戦後の昭和20年代の大合併で上加茂村も
加茂町に編入、2005年、平成の大合併で加茂町は津山市に編
入され、「津山市」になったわけだが、
「八つ墓村」が角川文庫、また松竹において映画化され、一
挙にその関連で都井睦雄事件が全国に知られるようになった。
無論、岡山県では知られていたし、横溝正史の「八つ墓村」も
発表は昭和20年代のことであるが、テレビ、雑誌にますます取
り上げられるようになり、事件の知名度はますばかりである。
そうなるから、「加茂」などという全国には待った知られない
地名より「津山市」という極めて全国的に知られた自治体名で
事件が称されるようになった、のは事件の知名度向上に沿った
自然な成り行きと言える。なお岡山県には現在、岡山市北区
にも「加茂町」が存在している。加茂という地名は全国に多数
あり、独自性もまるでなく、個々は無名である。津山でなくて
は何か通りが悪いのだ。
ともかく都井睦雄事件が「加茂野三十人殺し」から全国に
知られるようになって「津山三十人殺し」と称さえるようにな
ったのか、加茂町が津山市に併合されるかなり前からである。
「驚き桃の木」というテレビ番組で一時間番組だが、詳しく
紹介されたのが2003年くらいだが、そのときも「津山三十人殺
し」であった。まず全国的に話題になる場合は「津山三十人殺
し」である。
加茂町行重の貝尾集落など撮影のYou Tubeへのアップもひき
もきらない。もう日本の故郷かと、皮肉られる事件現場の貝尾
集落である。
県北の静寂な伝統ある城下町、津山市だが、今度は都井睦雄
事件に結び付けられることが多く、これによるイメージダウン
は軽視できない。今後も永久に「津山三十人殺し」と呼ばれる
ことだけは間違いないから、その結果が、・・・・影響はであ
る。
あの陰惨な事件のイメージを嫌って、・・・・・出ていくも
のがあるだろうか。人口は徐々に減少している。県北の過疎化
も明らかである。岩井志麻子さんが言われるように、志麻子さ
んは県南東部の和気町のご出身だが、「岡山県の人はどこに境
があるわけでもないんですが、県北にいくのは怖い、だから
行かないという人が多いんです」という具合で岡山県内でも
県北は怖れられているといえる。これは広島県と比べても顕著
な傾向だ。
1996年、作陽音大、同短大部が津山市から倉敷市玉島長尾に
移転
2023年 作陽学園高校が倉敷市玉島八島に移転、開校
津山市から倉敷市に移転した、「くらしき作陽大学」
何も都井睦雄事件の影響だとも言わないが、間接的には影響は
あるはずだ。未来永劫、津山三十人殺し、である。知名度のある
日本の都市で、~の~殺し、なんて称されているケースはなかなか
、見当たらない。
芳しい津山市と行重の貝尾集落との位置関係、津山市にかなり
近いといえる。加茂町では最も津山市寄りである。
この記事へのコメント
本の色が褐変していましたので、10年は経過していると思います。令和になってこれをヤフー2chに書き込んだら、筆者の名前と出版社を詳しく知らせてくれる書き込みがありました。
以前「岡田更生館事件は、戸籍の無い人を入れたら100人は殺害されている」と山陽新聞社に投稿しました。新聞社は、4回に渡って特集しましたが迫力に欠ける記事でした。
取材が思うような記事にして出せなかった記者が、ウィキペディアに詳しく書き込んでいると思われます。
毎日新聞記者は「知らなかった」と、当時の毎日新聞の記事を送って下さいました。