広瀬正『鏡の国のアリス』1972,完成5日後に急逝、時に憑かれたSF作家

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 広瀬正というまことにユニークなSF作家がいた。1924~1972
、47歳で亡くなった。最後の作品がこの『鏡の中アリス』であ
る。もちろん「不思議の国のアリス」にあやかったタイトルで
ある。時に憑かれたSF作家、との異名があったそうだ。

 この作品の主人公は木崎浩一という。あの当時、権勢を誇っ
た木崎国嘉がヒントの名前だろうか。サウスポーの独身青年、
ある日曜日の夕方、いい気分で銭湯に浸かっていたら、あたり
の様子が急に変になっているのに気づいた。男だから男湯に入
たはずが、周りは女ばかりだ。慌てて逃げ出そうとしたが、見
つかって交番に突き出された。交番で供述すると、彼が云うよ
な番地もアパートも存在しない、という。本署に連行された彼
は、時刻はそろそろ夜の8時半というのに、柱時計は3時半で
ある。壁には左右が逆の「親切丁寧」という紙が貼ってある。
 
 何だか急に別の世界にでも迷い込んだような気がした。やが
て彼は連れていかれた、ある科学評論家に「左右が逆のもう一
つの世界」いうならば、鏡の国に迷い込んだことを知る。左右
が逆の世界、そこで彼は恋をしたり、サウスポー用のテナーサッ
クス演奏会に出たり、さまざまな経験をした挙げ句、元の世界に
戻るために性転換手術を受け、改めて元の女湯にはいらなければ
、と思ったが、銭湯はもう取り壊されていた。

 まあ、アイデアとしては出てきそうなものだが、語り口はなめ
らかで、では主人公hがなぜ鏡の国に迷い込んだのか、作者はそ
れを鏡像物理学や、左利きの理論、などを交えて、さも本当らし
く説明していく、さすが理系出身といっていいのかどうか。もし
かしたら、有り得そうな「もう一つの世界」の物語を実に、まあ
、確かな骨格ある理論で、同時に想像力豊かに展開するのだ。こ
の手のSF、ちっと考えたらいろいろ思い付けそうな気もするが、
作品化は思いつきだけでは難しいに決まっている。ただこの作者、
広瀬さんはそういつものに向いた資質に恵まれていた、といえる
だろう。同時にこの作品と発表されている「T型フォード殺人事件
」もそのコンセプトだろうか。

 余談だが私は中学生の頃、「ボーイズライフ」にSFコントで
「ある一人が宇宙の果てを越えて宇宙の外を目指し、ある一人が
極微の世界を目指し、量子の世界に入り込んだら、二人は遭遇し
た」コントならいいが、作品化はアイデアだけでは無理だろう。

 ともあれ、この作品、脱稿後、5日後に赤坂の歩道に倒れ込んで
亡くなったという。残された画像はあまりないが、タバコを指に挟
んでいるから、かなりのヘビースモーカーだったようだ。

 三期連続直木賞候補、さらに期待されていた作家だったようで、
惜しむ声が多かったそうだ。

 司馬遼太郎は「作家の非業の死が続いている亜、最も作家らしい
最期を遂げたのはこの無名に近い作家であったことを思うと、名状
しがたい思いに襲われる」とその死を惜しんだという。

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