遠藤周作『死海のほとり』1973、イエスの奇蹟はすべて後世の捏造、ただあり得ない「愛」を説いただけと

 
 この小説は遠藤周作さん自身のイエス像を探ったもの、と
いうよりはイエス像を探る、その過程を辿ったものと云うべ
きだろうか。この小説は2つの別々の筋が相互に進行する構
造を持つ。

 一つはイスラエルを訪れた「私」の見聞記でらい、もう一
つはその昔、イエスの周辺にいた人間を一人ひとり、「群像の
一人」というタイトルでエピソード風に描いていく。

 エルサレムを訪れた作家の「私」無論、遠藤周作さんである
と思うが、大学時代の友人、戸田に頼んで聖地を案内してもら
う。戸田は聖書研究家で、10年ほど前、妻と分かれてイスラエ
ルにわたり、今は国連の仕事をやって食いつないでいる。戸田
は「私」をゴルゴダの丘や死海の辺りの荒野まで連れて行って
くれ、聖書のイエス像が後世に作られたものであり、イエスの
行ったという奇蹟もすべて後世の捏造だということを一つひと
つ暴いていく。

 他方「群像の一人」のエピソードは、イエスが民衆の期待に
反し、ついに何一つ奇蹟を行うことはなかったことが、繰り返
し強調される。イエスがなしたことは、盲目の人の手を取り、
ハンセン病患者の病床にいてやることだけだった。つまり、イエ
スが説いたことは、実現不可能な「愛」ということだけであった。
民数も弟子たちもイエスのもとから去っていき、ついにイエスは
一人きりになって十字架にかけられた。

 同じカトリック系の大学で、これは上智大に遠藤さんが一時的
に在籍したこと、だと思うが、戦時那珂を送った「私」と戸田の
間で寮の舎監の神父たちの思い出話が出る。肺病の学生のため、
自分への配給のバターを届けてくれるノサック神父のような人も
いるが、逆に無能で狡猾なネズミというあだ名の神父、ネズミは
その後、故郷に帰ってホロコーストに遭遇し、収容所で死んだと
いう。「私」はネズミと一緒に収容所生活を送ったという人をキ
ブツに訪ね、その醜悪で無残な死を聞いて驚く。だが「私」はイ
エスの姿がそのネズミに重なって仕方がない。

 戸田は民衆に見放され、失望だけ与えたイエスがなぜ死後に慕
われるのかという、つまり復活の謎は絶対に解けないという。
ただ「復活とは人間がそういう愛の行為を受け継ぐことか」と「
問う」私に、戸田は「ああ」と気のない返事をsるのみだ。全く
実現不可能な愛と、それを受け継ぐという、あまりに無茶で無謀
な話、それがキリスト教、・・・・・その重い鎖はなお人に巻か
れているということだろうか。

1984年10月、樹座公演の楽屋前で、183cmの長身、スリムな体型
が伺われる

 IMG_6152.JPG

 1983年10月、樹座パーティーで

 IMG_6153.JPG

この記事へのコメント