モーリヤック『仔羊』1957?「聖人」像からかけ離れた凡庸で惨めな青年を描く

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 モーリヤックは日本で親しまれている!フランス人作家で
あるが、この作品、『仔羊』はそれまでのモーリアックの
作品にはあまり登場していなかった人間が描かれている。
それは「聖人」である。

 カトリックの家庭に育ち、キリスト教作家という性格が強
いが、作品中で描いてきたのは罪や愛欲にのたうち回る男女
が多く、モーリアック自身「美しい徳が体の外にあふれてい
る人については、私はついに何事も語り得ないのだろうか」
と自問自答していた。美しい徳の人は罪の悶や苦しみ、つま
り人間としての闘いや劇的葛藤は持たないから、というのだ
そうだ。

 この告白めいたコメントから30年も経て、モーリアックは
初めて彼流の聖人を描こうとしたのだ。それこそが、この作
品に登場するグザビエルという青年なのだ。

 グザビエルはある夏の日、パリの神学校に入るために、ボル
ドーの駅から汽車に乗る。汽車の窓から彼は男に捨てられた
と思しき、若い女を見た。女の顔は悲しみと絶望で歪んでいた。
おまけに女を捨てた男がグザビエルの向かいに座ったのである。

 グザビエルは女への同情で締め付けられるようだった。傷つ
いた人間、悩み者の苦しみを共に背負うというのは彼の精神の
本質であった。その本質にかられて、グザビエルは向かいに座
った男、ミルベルに話しかけた。パリの神学校に入る計画を捨
てて、こともあろうにホモのミルベルに誘われてその家に連れ
ていかれるのである。

 ミルベルの家でグザビエルを待っていたのはあの女だけでは
なく、ロランという孤児、その家庭教師をしている娘、ドミニ
ク、それと偽善的信仰を他人に強いるミルベルの母親だった。
そうした人間の悲しみや苦しみはグザビルの心をさらに締めつ
けて、この家を出てパリに戻ることはできなかった。

 ミルベルの陰険な誘惑を拒みながら、グザビエルはロランの
ために虚しい努力を続ける。神学校を捨てたグザビエルは人々
から理解されず非難され、嘲笑される。だがもやはグザビエル
は司祭に成るより目前の有縁の人のために生きるほうが重要に
なったのだ。だがグザビエルはこの家の住人に尽くそうとしたが、
結果は何一つ出来ないうち車にはねられて死んでしまう。

 これが、・・・・・モーリヤックの描いた「聖人」なのだ。
名ばかりの聖人?名もないのだ、栄光も称賛もない、惨めで判断
ミスした平凡な青年の物語だ。この種の新たな惨めな「聖人」は
他のキリスト教坂kではベルナノスの「田舎司祭の日記」でも登場
したようだが、モーリヤックはそのコンセプトを広げ、独自の
「聖人」を「円熟」した心理分析で描いている。比較でいうと、
遠藤周作のほうが格段に上?と思うのも浅はかで、そこはフランス
文学だ、味わうべきである。

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