山口瞳『人殺し』1972,殺伐たる題名だが秀作というしかない

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 山口瞳はひょうきんな作品もあるが、それが知られている
と思うが、実は純文学の秀作に事欠かない。その代表が『人
殺し』なんとも殺伐たる題名で、それはそれで損をしている
にせよ、秀作と云わざるを得ない。

 全く如何なる快楽も陶酔もない情事があるなら、、それは
すあんわち地獄に行くようなものだろう。山口瞳の小説は、そ
うした情事の死体置き場を恰も科学者のような冷たい残酷な手
つきで語っていくのだ。子供時代、隣に川端康成が住んでいた
、とかいうが、あの冷たさをどこかで受け継いだのか、とさえ
思える。作者は常に厳しい心理探究家であり、犠牲を強いられ
る分析家である。情事の面白さを小説に求める向きには失望を
与えるだろうが。それほど、この長編小説は厳しい純文学であ
り、しかも一級品である。

 主人公の井崎は流行作家、妻の道子とは学生結婚、その間に
な林太郎という息子がいる。道子は二人目を妊娠中絶したとき、
その麻酔が原因で手足硬直の発作を起こし、電車などに乗るこ
とを恐れる精神的な病、一種のノイローゼにかかる。10年以上
も書き続けている井崎も書くことに疲れ、糖尿病の疑いで中学
時代の友人で医者の湯村のいる京都の病院に入院し、三週間の
検査入院を行う。

 湯村には三年前に亡くなった井崎のわがままな父親も世話に
なっている。だが、その入院費を払うのに井崎は苦労して、
一年後に看病に追われた道子のために郊外にマンションを購入、
さらにそのローンと税金に追い立てられる。このあたりの父親
の描写は実に鋭い、逆に息子の林太郎の描写は簡略だ。

 井崎は数年前から新宿の「金属」という酒場の常連だった。
そこで瑛子という女子大出の30歳になったら死ぬという不良上
がりのような美人ホステスを知り、情事をもつ。瑛子は井崎以外
にも、水野という社長やパトロンを何人か持っている。井崎は瑛
子の正体を見極めつつ、入院中の京都の呼び寄せたり、山梨の山
中で会ったりする。

 井崎は妻と瑛子の間で悩む、この苦悩は山口瞳一流の、というべ
きか、繊細な罪悪感、羞恥心、冷たい覚醒感を持って描かれる。ベ
ラベタした表現は皆無だろう、最後は生理の日の嘘を言う瑛子に
愛想をつかし、井崎は瑛子から去る。

 私は「流行作家」井崎、学生結婚ということ、また新宿の酒場に
入り浸る、から山口瞳の親友の梶山季之にヒントを得ているのでは
と直感した。そんなに全くの創作ができるはずはない、からである。
文壇の苦渋な事情や新宿の酒場の実態、ますます梶山季之かなと感
じるが、こんなエピソードが実際、あったのかどうか、無から有は
作れないだろう。しかし、山口瞳とはまさに端倪スべからざる作家
である、秀作である。

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