坪内念典『世紀末の地球儀』1984,短詩型、定型詩の本質と可能性


 京都在住のなんとも気鋭の若手俳人も、現在は78歳か、その
1984年の記念碑的著作、1944年生まれだから40歳にもならぬ頃
の思惟が凝集された著作だ、

 坪内さんの情熱はほとばしっているかのようだ。文学が衰退
するというときは、それは即、言語が衰退しているということ
にほかならない。換言すれば、広義の文体の創造こそが文学の
活性化の道である。この本の構成は①定型詩のありか ②俳句
の光景、 ③短歌の光景 、以上の三章からなっている。

①において坪内さんは正岡子規が目指したものに則して、俳句
の原点ともいうべき、ありようについて繰り返し述べている。
 
 俳句は極端なまでに小さな詩形である。短詩型というのさえ
憚れそうだ。そのあまりに特殊性ゆえにあれこれ批判されるが、
要はその形式のみに囚われては実際、批判されるとおりであり、
詩型の活力は失われてしまう。正岡子規は『俳句大要』でこの
点に触れていて、さらに「空想を写実と合同して、一種非空非
実の大文学を製出せざるべからず、空想に偏辟し、写実に拘泥
する者は固より其至る者に非るなり」と述べている。

 さらに子規は、『ホトトギス』で、固定した情趣や陳腐な
表現に陥っていた「月並句」に批判を加え、対象を肉眼でとら
える写生の実践を提唱した。俳諧が詩歌連という正統的な風雅
の及ばない地点に達するには「座」において、新しい風雅が俳
諧の言葉で創出されるからである。
 
 坪内さんはここに至って「今日、俳句はあまりに生真面目に
かかれすぎてはいないだろうか」と問題を提出する。

 「俳句形式とは、本来、固定した秩序や感覚、モノの見方を
こわし、自由自在な世界を作り出す仕掛けであった」とし、詩
が永遠なるものへの衝動を内蔵しているなら、歳時記的秩序も
、それは永遠のもの江あるが、俳句はそれへの悪意を含んだ
対立によって、近代の根っこ、いわば地下水を汲む試みとなる。
そこに定型の夢があるというのだ。

 俳句論は多種多様だは、あえて私は「第二芸術論」と並べて
読むべきだと思える。

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