人生で本当に辛かったのは小学校、中学、高校時代だけ
人生は苦労続きとはいえ、本当に辛いと思ったのは小学校
から高校までの間だけである、その後も、つらいはずだが正
直、両親にいる家庭から通った小学校から高校までの二十歳
近い年齢まで、それに尽きる。故郷を離れ、あの育った家庭
を離れてからは、いかに外見では苦難に見えて実はなんとも
なかった。小学校に入ると家庭の、親のサポートが重要にな
る。あらゆる意味で、あの母が亡くなってほんとうに改めて
わかったことは、生まれて過ぎという早い時期から私への
限りない憎しみ、殺意と云っていい、実際、「殺す」、「死
ね」は数限りなく投げつけられた、決して冗談で口にできる
言葉ではない、その理由はよく分からないが、とにかくあの
母親にとって私を憎むことは本能だったということである。
私自身の記憶すらないほど幼い時期、あまりに私への虐待が
ひどいので、叔母が、当時大阪の東淀川駅近くのアパートに
住んでいた叔母が私を数ヶ月も引き取ってくれた。あのときは
本当に幸福の極み、叔母は休みには心斎橋や京都、また中座な
どの連れて行ってくれたり、梅田のレストラン、・・・・
今でも記憶にある、高天井のレストラン、、買ってもらった、
ヘリウム入り風船を私が離してしまい、高い天井にその風船が
、・・・・・京都の多分、清水寺あたりと思う、高台から細い
土の段々坂を降りる時、眼前に広がった京都の市街の光景、
そのレと同じドンピシャの光景が平凡社の「国民百科事典」
の京都の項目にグラビアであった、・・・・・が実家の夜逃
げで失われ、再度何度も国民百科事典を古書で購入したがあの
グラビアの写真に出会えない。
しかし家に変えるとあの親、母親である。保育園時代はまだ
よかったが、小学校入学から地獄が始まった。などというと、
多くの人は怪訝な顔をする、「そんなことを云う人は他にいない」
当然だろう、子供時代は楽しい、多少は辛いことはあるにせよ、
私のように人生で二十歳までが地獄だっ他、という人は今どき
、ほぼいないようだ。
小学2年の冬休みからが地獄の始まった、幼い時代、幸福な幼
い頃に周囲にいたホトたちは皆離れてしまった。跡は、両親の、
私への呵責ないいじめ、虐待が貼っじまった。父親はタイプは母
とは違うが、子供には全く愛情を持たない人間だった。母は私だ
けを激しく憎んだ、・・・・・・だがその理由がわからない。
『これを云えば親子関係は終わり」というひどい言葉を毎日、
口にした母親だった。それについての呵責など皆無のようで、そ
のような反省などかけらもない。ただ一途に憎い、それだけだっ
たようだ。
家庭は毎日、小3からは一日も例外なく醜悪な夫婦のいがみ合い
、夫婦の最後まで続いた。
私も神戸大学に入って受かったときだけは喜んでくれたが、す
ぐにそれも消え去った。不渡りで家は喪失、親が以前持っていた
土地に母が主に金を出し、長男が800万円ローンを組んで新築した
、二年の冬休み初めて帰ったら、すぐに「この家な長男の結婚のた
めの家だ、お前の家じゃない」誰も大学生の帰省の実家が大学生の
所有なんてないだろう。農家などで長男が単独相続、だから次男以
下に「お前もいつかはこの家を出ていかなければいけないよ」など
は云われるケースはおおかった。だが大学生が休みに実家に帰省も
許さない、「長男とその嫁の家だ」母は長男の家族と暮らすことが
最大の夢、幸福だったようで私を返さない、追い出すことしか考え
ていなかったようだ。でも長男夫婦が出たたと、私しか頼れないと
なって協力関係は長く続いたが、93歳近くになって、毎週、通って
いる私に電話でいきなり「殺す」、・・・・・理由は分からないし、
私なくして生きられないのに、だが「次男を憎み、呪うという生涯
を貫くコンセプトが最後に出たな」と思った。最後の最後に生涯の
本音が出たようだ、それは母親の自滅に直結した。
母も亡くなり、やっと解放されたという安堵にせよ、二十歳までの
つらすぎる思い出はどうしようもない。
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