太宰治はなぜあれほど死にたかったのか?


 青森県随一の地主の家、父親は貴族院議員、という普通に
考えれば超恵まれた環境に生まれた太宰治、津島修治の心中
、と言いたいが本質は自殺、、何故あれほど繰り返し死を求
めたのか、はもう数限りなく論考されていて、いまさらでは
あるのだが。生涯で都合、5回、自殺を図って最後は成功し
た。最初が1929年、昭和4年21歳、弘前高校時代、2回めは
東大仏文に入った年、3回目は1935年、昭和10年、27歳で
、4回目は1937年、昭和12年29歳の時、5回目があの玉川上水
での女性を伴っての自殺、長男の津島文治さんはその一報を
聞いて「畳の上で死ねない修治の運命を思い、感無量の念に
襲われた」たそうである。2回め、4回目、5回目は心中の
形を取っている。

 「生まれてすみません」とは「二十世紀の旗手」という作品
中の文であるが、一体全体、なぜそのような気持ちに囚われた
のだろうか。

 何もかも語られ尽くしている。太宰は県随一の地主の家庭に
六男として生まれた。長男、次男は夭折、で結局、四男として
の立場になった。姉が四人、弟もいる。曾祖母、祖母も健在、
出戻りの叔母が娘四人を連れて同居、だから大した大家族だ。
父親は貴族院議員でもあり、あまり家にいなかった。実母は授
乳できない体であり、子守の「たけ」を相手に遊ぶことが多か
ったという。そこから、なんとなく、自分は大家族、津島家の
余計な人間という感情が生まれていたようだ。大正デモクラシー
で「小四は五年の時、末の兄にデモクラシーを教えられ、」こ
れを聞いて「こころ弱くうろたえた」とある。

 三島由紀夫は太宰を悪くいって自分をなにか公家のように世間
に虚像を撒き散らしたが実際は祖父は播磨の貧農の出、その官僚
としての出世で「庶民枠」で三島由紀夫は学習院に入れただけで
あるが、この学習院を三島は徹底的に活用した。だが太宰治こそ
はまさに地域のトップの名門の出である。

 ともかく大地主に成るため、津島家は悪行の限りを尽くした、と
云う自責にの念で「罪悪感」がそれまでの「余計者感」に付け加わ
って、死を求めるようになったのだろうか。

 昭和4年、1929年10月、「無限奈落」という作品を同人誌に、こ
れは父親をモデルにしたようで大地主の主人公は悪辣で妾狂いとい
う具合で悪く書かれており、地方新聞にも「津島家の息子がこんな
ものを書いた」と取り上げ、長兄の文治さんが太宰を厳しく叱責し
た。

 太宰は余計者意識、罪悪感をもちつつ他方で県でトップの旧家、
有力な家の生まれを誇りにもし、実家に愛着を持ち、身内には悪
く思われたくない、という気持ちもあった。

 さらに「地主一代」という文治さんをモデルにした作品を書い
たが、徹底的な悪玉として描いている。もう肉親に愛想を尽かさ
れるのは目に見えていた。かくして下宿を出て北海道にわたり、
函館の旅館でカルモチンを飲んだ。

 翌年、東大仏文に入学、非合法運動に関係した。逸話だが、そ
の弘前高校時代の友人も非合法運動に関わり、ある日、「党のえ
らい人が来る」というので期待していたら太宰が現れてあきれたと
いう。

 最後に玉川上水での自殺、心中は語られ尽くしているが、どう
にもこうにも自殺志願の強さは、何故?なのかという疑問は感じる。
常識的に云えば理由はない、もし自殺する理由と言うなら、煩わし
い問題を悩みを生きる人間は、皆抱えている。太宰治は死ぬ理由は
見いだせない。

 最後の相手、自殺で巻き込んだのは山崎富栄という女性だ。昭和
14年に井伏鱒二夫妻の媒酌で美知子(未亡人)と結婚、一男二女を
もうけた。この頃は自殺志向は和らいだと思えるが、戦争に、実家
に疎開、昭和21年に帰京、戦後の混乱期、文学雑誌は次々と創刊さ
れ、一躍ジャーナリズムの寵児となったのは否めない。文学青年、
文学関係者が続々訪問、毎日のようみ太宰は飲み歩いた。そこで
最後の心中の相手、山崎富栄さんに出会った。戦争未亡人だった。
前夫は三井物産社員、フィリピン駐在で現地応召、戦死した。戦後
、三鷹美容院に勤務していたが、三鷹駅前の屋台で友人に太宰を紹
介され、たちまち太宰に傾倒した。献身的に愛情を注いだという。

 太宰は山崎豊榮の前でも「こいつはしょっちゅう、もしかしたら
死ぬって、脅かすんだ、青酸カリでね」と友人に語っていたという。
事実、彼女は青酸カリを持っていた。他方で太宰は太田静子という
存在があり、「女生徒」を書くきっかけともなった。妊娠までさせ
ている。さらに夫人もいる。

 だから「桜桃」では「生きるということは大変なことだ。あっち
こっちに鎖が絡まって、少しでも動くと血が吹き出す。もう仕事ど
ころではない。自殺のことばかり考えている」

 山崎豊栄は夫人や太田静子への対抗で子供を生むことも考えたよ
うだが、太宰の状況ではそれも無理だった。もはや太宰を独占のた
めに「死ぬ」以外にないとおもうようになったようだ。

 太宰は学生時代、芥川の自殺を聞いて「作家の死に方はああでな
いといけない」といったっという。忘れられて死にたくはない、つ
まり見栄のような気持ちがあったという。

 作品も行き詰まりを感じていたようで、また太宰が流行作家にな
って「若い取り巻きに囲まれて、また女を作って同棲のような生活
をおくっている」という乱脈な生活を師匠的な井伏鱒二が好むはず
もない。太宰は井伏の気持ちを実に敏感に察していたという。二人
の仲はきまずくなったようだ。もう唯一の理解者、井伏からも見捨
てられたと思った。

 愛人問題、それは太田静子のことでその生まれた子供をどうする
かは悩みだった。もうう山崎豊栄と死んで決着をつけるしかないと
思うようになったのだろう。山崎は太宰の独占の目的で死ぬ、心中
する、かくして玉川上水への二人の投身、昭和23年、1948年6月13日
の深夜であった。二人の死体は固く紐で結ばれていた。投身箇所の土
手には山崎さんのへ下駄の跡が残っていた。

 容易に死体は上がらず6月19日であった。小雨が降りしきっていた
という。すぐに遺体は離され、別々の場所に運ばれた、


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この記事へのコメント

ダス・ゲマイネ
2022年12月21日 00:50
健康な体なら、徴兵にとられて戦死してたかもしれないし、自殺してなくても長生きは出来そうもないから良いタイミングだと本人は思ったのかもしれません。
彼の自殺が川端康成氏にも影響を与えたのかと思うともったいないの一言に尽きます。