丹羽文雄『小説作法』1954,体験に基づく丹羽文学の打ち明け話、一般論的ではない

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 丹羽文雄さんは非常に多作の作家で自らの生い立ちに絡めた
浄土真宗の末寺などを舞台の宗教的作品、さらに終戦から長く、
風俗小説を量産、また愛欲、情痴小説、例えば『顔』など、人
物の造形描写にすぐれている。練達の作家というほかないが、
昭和29年、1954年の『小説作法』、なんだかタイトルだけを見
たら豊富な文学体験からの文学概論、小説入門のような内容を
想像するが、実はどこまでも丹羽文雄文学の執筆体験からの、
いわば「打ち明け話」でえある。最初は文芸春秋新社、現在は
講談社文芸文庫から出ている。

 この時点、で丹羽文雄さんは作家生活は『鮎』に始まり、30
年近い。十分な作家体験である。戦時下では『海戦』がベストセ
ラーにもなった。ジャンルも多彩だ。同人誌『文学者』を主宰、
多くの新人を文壇に送り込んだ、瀬戸内寂聴さん、河野多恵子さ
んなどは代表格だろうが、それも数多い。

 丹羽文雄さんは、その言葉では「初心者」に向かって語ると
いう風情の独自の「小説作法」ということである。

 章は16もある。単なる文学の先生では書けないのは「小説覚
書」、「文章について」、「あとがきの意義」、「初心者の心得」
などだろうか、さらに「テーマに就いて」、「小説の書き出しと
結びに就いて」、などか。ただ「プロットに就いて」、「人物描
写」、「描写と説明」などは期待してしまう章だが、ちょっと期
待外れもいい所で、「小説の形式」、「リアリティに就いて」、
「時間の処理」などは体裁だけを整えているようで内容的には、
およそ見るべきものはないと思う。

 「小説覚書」では実際に書いた作品について「よくよく人には
見せられない覚書」を、そのまま発表し、最初のヒントから作品
化にいたる舞台裏を公開しているようだ。これは実体験に即して
いるから生き生きしている。基本は、こういう舞台裏は公開しな
いものだろうが、だから面白い。最も豚宇井ら、秘密公開は「
女靴」、「媒体」という作品、親切に巻末に作品が収録されてい
るからなおさら、である。

 「文章に就いて」、これには谷崎潤一郎のエッセイも思い出さ
れるが、丹羽さんのこの文章は、まあ文章観の相違は多々あるに
せよ、さすがの含蓄だ。

 「私は小説の文章はそれほど重視していない。もっと素直に、
言いたいことが通じる文章であればよろしい」、「いわゆる名文
なるものを、私は常に警戒している。私はことさらぎくしゃくし
た文章を選ぶ。流暢に流れそうになると、書き直す」、「文学の
世界で文章に表されないものはない、と考える人は文章というも
のの不完全さ、不自然さを痛感しない人間である」、「対象をし
かkりとらえて、素直に簡単明瞭に書くということだけである」

 いずれも文章の心得の本質に触れている。

 「あとがきの意義」はなんだか仰々しいタイトルだが、内容は
丹羽さん自身の経験が、いかなる形でその後の作品に生かされて
いるのか、「遮断機」、「噓の巣」などと云う作品についても興
味深いエピソードが語られている。

 「初心者の心得」、内容は凡庸に見受けられるが、それが強い
実感、実体験に基いて語られている、ということである。つまり、
自分自身に素直であれ、ということだと思うが、感動がわくのを
待つより、とにかく理屈抜きにペンを取れ、書くなら最後まで書
き通せ、下手に真似て褒められるのを狙うより、下手でもいいか
ら、自分のスタイルを通せ、などなど書く時の食べ物や、執筆
時間への意見、外国文学の読み方、などまさに現役ばりばりの作
家ならではの、高邁な文学論でなく、実際の心得であり、参考に
なるというものだ。

 丹羽さんは自分を「昔の私は、現実をそのままに描こうと努力
したが、最近は反対になっている。強烈に自我という照明をあて
ることが第一の仕事になっている」まさに丹羽さんの実体験によ
る体験からくる偽りなき信念である。

 とはいえ、世の中、きれいごとだけで通せるものでもないだろ
う。もっと露骨なえげつない内容を期待しても、そのようなこと
はあまり語られていない。結果、丹羽文学の解説のような、きれ
いごとに終わっている憾みはある。それだけでは語られない、何
か、もう自分の努力しかないだろう。

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