中野好夫『人間の死に方』新潮選書、いかに生きるか、と同義ではないのか
この本の内容はさておき、私は「生」と「死」を対立させ、
並び称するのは誤りだと思う。「生」はたしかにある、ある
が「死」とは「生が終わって一切、設定も何もない、無でさ
えない状態」というのが真相だと思う。死は無でさえない、
一切論じる意味もないと思う。時間も空間も、あらゆるもの
の設定がない。だから過去と思える「負の虚数時間」も「10の
100乗年後」も同じこと、死ねば、ではなく生が終われば、あ
らゆる設定がないのだから、生きていたということも消えてし
まう、と考えて中野好夫さんの本へ、
人間の死とは?生が有限で生がすでにない、ということである。
生の終わりということだが、もはや設定が消えていくことだ。
「死」を論じる意味はない、と思う。生き抜くことが、実はすな
わち「死に方」である。要は人間は生き抜くことだけ考えればい
い、「死に方」など考えずとも良い、と私は思うのだが。
中野好夫はモンテーニュの言葉「実際、ひとびとの死に際ほど、
つまり彼らがどんな言葉、いかなる顔つき、どんな態度で死に臨
んだか、というほど私が知りたかったことはない」を引用し、
「この一節は私の興味を引く」と告白している。
何も中野好夫に限った話でもなく、多くの人に共通するもので
あろう。ただ生きることは闘いであり、死を目前にしてあれこれ、
思い煩う必要もないだけだろう。
この本はタイトル通り「人間の死に方lであり、何人かの歴史的
人物や作家によっての虚構の作中人物までも含め、彼らがいかにし
て、イカな態度で死を迎えたか、を述べるエッセイだ。私は正直、
人間は生きることだけ考えればいい、死に方、と言って死んでみな
ければ死んだかどうか分からないわけであるから、考えるだけ無意
味と思得る。幻想でも千年生きると思って生きたらいい、自然に、い
柄化は終わり来るだろうが、それを詮索しても仕方がないではないか。
ともかく、物知りな中野好夫だけに、博識の極みだ。トルストイ、
正宗白鳥、フロイド、親鸞、江藤新平、プーシキンを取り上げている。
その中でが、死に至る病歴のカルテを丹念に追ったフロイドのケース
が面白い。意識下の世界に光を当てた心理学者、精神医学者、は67歳
で口腔がんに侵された。83歳で生涯を終えるまで、手術だけで33回に
及んだ。晩年にはナチスのユダヤ人迫害も受け、長年住んだウィーン
を去って、ロンドンに亡命した。そこで研究を重ね、代表的な労作を
ものにした。
フロイドの生涯なんて人気はない、単調で平凡だ、だが最後の闘病
生活はその不屈さを。探究心をよく示している。
懐疑主義の正宗白鳥、信仰告白、若くしてキリスト教に接近したが
信仰には入れず、死に際に洗礼を受けた。奇蹟への期待に反し、「さる
たしかなる事」もなく入滅した親鸞、優れた法制的な頭脳をもちつつも
、人間一期の大事に際し、その優秀さを発揮せず挫折した江藤新平、
確かに人間論としては面白いが。死を覚悟の家出を行って死んだトルス
トイ、超自我主義者でありつつも、最後には朽ち果てたスイフト、」
プーシキンの決闘による死、

やはり激しく生きたか、いかに生き抜いたか、に尽きるようで、それ
以外、強いて考える必要はない気がする。
「生は有限」だが自分にしたら、しょせん生は永遠というほかない。
「死に方」など無意味ということだ、生きることが全てだろう。
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