堀田善衛『上海にて』1959、戦後、中国で「留用」された著者の胸のつかえのカタルシスか

「留用」という言葉がある。日本語ではなく中国語である。
基本的には「新政府が旧政府の職員をそのまま留めて継続雇用
する」とあるが、「外国人を帰国させずそのまま滞在させて
おくこと」という意味も、日本にまつわる「留用」は戦後、中
国にいた技術者、医師、看護婦、主に空軍などの教官がそのま
ま中国に留め置かれて新たな創設に協力させられた、である。
堀田善衛は東京大空襲の後、1945年3月、国際文化振興会が上海
に設置していた上海資料室に赴任、そのまま現地で終戦。即座
帰国も出来ずいたが、1945年12月、中国国民党中央宣伝部対日
文化工作委員会に「留用」された。現地の日本雑誌『新生』編
集、現地中国紙『中央日報』に対日輿論の翻訳を担当した。19
46年12月に米軍の上陸用舟艇で帰国、である。この体験が、堀
田善衛をアジアに足を置く独自の作家とした。
その堀田善衛が久々に上海を訪問、共産党が中国本土を支配
していた。
1957年、昭和32年秋に堀田善衛は中国、上海を再訪した。同
行した中野重治は「上海へ汽車が近づくと、堀田君の青春の磁石
がカチカチと鳴り出すだろう」と言ったそうだ。
実際、上海こそは堀田善衛の青春の場である。それまでに『断
層』、『歴史』、『時間』などで執拗に中国と取り組んできた。
過去の上海と現在の上海、大きな違い、違いの中を激しく往復す
る精神の記述である。
青春の上海とはいっても1945年3月から翌年12月、という動乱
の時代だった。長い時間ではない。建物、街路の一つ一つが当時
の記憶を呼び起こし、堀田善衛を興奮に導く。
戦争直後の中国を支配していた調査統計局という秘密警察組織、
それと米軍との強い結びつき、日中戦争における中国人の莫大な
犠牲にまつわる中国人との微妙な心理の交錯、終戦時、上海在住
の日本文化人の率直な考えを空から配布しようとして奔走した、
あの興奮。さらに中国漢奸の公開処刑の目撃、などなんとも鮮烈
な体験を経た堀田善衛である。
それから12年、1957年、中国にもそれらの事実を知らない新し
い世代が生まれてきてすでに第一線で活躍している。
「日中双方も、戦争を直接知らない世代とのギャップを少しで
も埋めておく必要がある、切れ目があってはならない」これが、
最大の執筆意図だろうが、まず日中戦争における贖罪の気持ちは
基本にある。スメドレーなどの文章を引きながら、戦前戦中の上
海でお搾取の激しさ、植民都市、上海の状況を語っている。単な
る中国論でもなく、戦争責任論でもない、まして紀行文でもない。
堀田善衛の上海における胸のつかえは容易なものではなく、
「おれにはこれがこうなっている、と言うよりほかに言い方
がない」
という捨鉢な言葉も、十年に渡る堀田善衛の胸のつかえを一気
に吐き出す、カタルシスなのだろうか。その身悶えしそうな感情
の高ぶりは抑え切れないようで、戦後の巨大な中国を実際眼にし
て、青春の我が身をあたかも散骨するかのようだ。なんとも息苦
しいほどの告白の書である。
戦後もうあまりに時間が経った。日中双方、もう新しい世代、と
いうのか習近平も戦争を知らない世代である。お互い、浅はかには
なりたくないものである。日本も保守化の一途、嫌中感情支配では
づしようもない。
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